西暦222年、復讐に燃える蜀の皇帝・劉備(りゅうび)の大軍を
呉の総大将たる陸遜(りくそん)が火計をもって討ち破りました。
劉備はその後、白帝城に敗退し、失意のままに亡くなります。
劉備にとどめを刺したのは、呉の陸遜といっても過言ではありません。
陸遜は数々の武功をあげて、西暦229年に上大将軍(最高司令官)・右都護に任命され、
推しも押されぬ呉の代表となります。
関連記事:忠義の士・陸遜に迫る!陸遜は呉でクーデターを起こすことはできたの?
蜀の代表・諸葛亮
蜀の諸葛亮孔明は蜀が建国され、劉備が皇帝となった西暦221年に丞相に任命されています。
そして劉備が陸遜に敗退し、白帝城で亡くなった西暦223年、
諸葛亮孔明は新皇帝となる劉禅(りゅうぜん)の後見役を任されるのです。
諸葛亮孔明は陸遜よりも先に国を代表する重責を担っていました。
ちなみに陸遜が諸葛亮孔明と同等の丞相の位に就くのは、西暦244年のことになります。
諸葛亮孔明が五丈原の地で亡くなってからすでに10年の時が過ぎ去っていました。
陸遜と諸葛亮の大きな違い
ふたりの年齢差はおよそ2歳です。
ほぼ同年代といってもよいでしょう。諸葛亮孔明のほうが2歳の年上ということになります。
魏の司馬懿(しばい)はさらに諸葛亮孔明より2歳年上になります。
まさに新世代を代表する3人でした。
陸遜と諸葛亮孔明の大きな違いはどこにあるでしょうか。
一番は主君です。仕えるべき相手の器量や経験が圧倒的に違うのです。
呉は曹操と赤壁で戦い、確固たる独立勢力を築いた経験豊富な孫権が君主でした。
対して劉禅は、さほどの苦労もせずに蜀の皇帝になっています。戦場で指揮をとったことも皆無です。
つまり呉はあくまでも孫権主導で政治が行われたことに対し、
蜀は諸葛亮孔明に国の将来がかかっていました。
その点では責任重大な諸葛亮孔明の立場でしたが、その分だけ自由に指揮をとれたといえるでしょう。
関連記事:孔明と曹操は相性が抜群?もし孔明が魏に仕えていたら歴史はどうなった?
関連記事:【架空戦記】時空を超えた対決!韓信VS 諸葛亮孔明の一本勝負
陸遜と諸葛亮の関係
ふたりが戦場でぶつかりあったことはありません。
三国志演義では夷陵の戦いで劉備を救うために
諸葛亮孔明が骨をおったとされていますが、脚色でしょう。
諸葛亮孔明にとっては主君を倒した憎むべき相手なのですが、
なぜ諸葛亮孔明は陸遜と争わなかったのでしょうか。
一番は諸葛亮孔明が蜀建国の志である、漢を滅ぼした魏を倒すという初心に戻ったからです。
つまり諸葛亮孔明は呉との融和策を選んだのです。賢明な判断でしょう。
蜀と呉が争って喜ぶのは魏だけです。呉と蜀は共倒れになってしまいます。
このとき、呉の孫権は蜀との外交の窓口に陸遜を指名しました。
孫権はそのために自分の印璽を彫って陸遜に渡したのです。
蜀に書簡を送る時にはまず陸遜に確認させ、手直しが必要なときは陸遜の独断で修正が可能でした。
必ず内容を確認し、陸遜の手元にある孫権の印璽で封をしたのです。
陸遜と諸葛亮孔明は国を背負って交流したことになります。
西暦234年の協力
西暦234年、蜀の諸葛亮孔明は自身の最期の北伐となる戦いを五丈原で繰り広げます。
蜀は当然、同盟国である呉に同時出兵を促し、陸遜は諸葛瑾と共に魏の襄陽を攻めました。
孫権は合肥を攻めています。
魏の曹叡は自ら寿春に出兵し呉の攻撃をなんとしても押さえきろうとするのに対し、
蜀に対しては司令官の司馬懿に援軍を出して絶対に戦わないように厳命しました。
結局、諸葛亮孔明は百日の対陣の後に病没し、蜀と呉の同時攻撃はまたも失敗に終わるのです。
関連記事:本当に病弱?実は健康に自信があった孔明、寿命を縮めた大誤算とは?
関連記事:諸葛亮の死因は過労死らしいけど、一体どんな仕事してたの?
三国志ライター ろひもと理穂の独り言
陸遜にとって諸葛亮孔明は憧れの存在だったかもしれません。
同じような年代でありながら、丞相として国を支え、南征し国力を高め、巨大な敵である魏に攻め込む。
まさにスーパースターです。陸遜が尊敬の念を持っていたとしてもおかしくはないでしょう。
互いにもっともっと話をして魏を倒す算段をつければ戦局はもっと変わったかもしれないと思うと、
なんだかもったいないような気もします。
まあ、戦わなかったことが互いに力を認めていた証拠なのかもしれません。
関連記事:陸遜(りくそん)ってどんな人?100年に1人の呉の逸材
—古代中国の暮らしぶりがよくわかる—