三国志の時代には英雄・豪傑など多くの魅力あふれる人が出てきています。
そのため三国志の時代は古代から多くの人を魅了しており、
現在でもたくさんの三国志好きの人々が三国時代を愛しております。
しかし三国時代を彩ったのは英雄・豪傑だけではなく女性も活躍している時代でした。
今回はその中でも烈女にスポットライトを当ててみました。
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この記事の目次
烈女とは何?
烈女をご紹介する前に一体烈女とは何ぞやということから説明しましょう。
烈女とは読んで字のごとく「激しい女性」という意味です。
では激しい女性とは一体何なのでしょう。
それは男性が活躍する場であった戦場や政治などで活躍した女性を意味します。
三国志の時代にいた烈女達その1:劉備の孫にあたる劉諶の妻・崔氏
始めの烈女様は三国志の蜀にいた烈女です。
この烈女様は蜀の劉備の孫で劉禅(りゅうぜん)の五男である劉諶(りゅうしん)の奥さん・崔氏です。
劉諶は蜀に鍾会(しょうかい)率いる魏軍が侵攻してきた際、
別働隊を率いて鄧艾軍が蜀の首都である成都近くへ押し寄せてきます。
この時成都では今後の方針を決める会議が連日連夜開かれておりました。
この会議で劉諶は劉禅へ徹底抗戦して戦うべしと進言しますが、
劉禅は降伏することに決めてしまいます。
劉諶は落胆して屋敷に帰ると妻である崔氏へ「陛下は魏へ降伏することを決めてしまった。
私は魏に降伏することを潔いと思わないから自害して先帝陛下へお詫びを行ってくる」と伝えます。
すると彼女は「旦那様見事なお覚悟。私は先に行っておりますわ」と行って劉諶が自害する前に
自らの心臓めがけて胸へ小刀を一突きして亡くなってしまいます。
その後劉諶も崔氏の後を追って自害することになります。
崔氏の見事なまでの死に様はまさに烈女にふさわしいと言えるでしょう。
三国志の時代にいた烈女達その2:曹操も扱いあぐねた自己主張の激しい烈女・丁氏
曹操の奥さんであった丁氏(ていし)。
彼女は自分の息子のように可愛がっていた曹昂(そうこう)が宛城で亡くなったことを知ると
悲しみに打ちひしがれてしまい曹操の元を去り実家に帰ってしまいます。
曹操は彼女との距離を置いて時間が経てば再び元に戻れるであろうと考えており、
数ヵ月後彼女の実家を訪れます。
曹操は彼女の部屋を尋ねると「そろそろ家に帰ろうではないか」と伝えます。
しかし彼女は彼の言葉を無視。
その後も曹操は幾度も言葉を重ねて彼女を説得するのですが、
彼女は曹操の言葉に一切答えようとしませんでした。
そのため曹操も彼女の説得を諦めて去っていくことになります。
なぜ丁氏は曹操と和解しようとしなかったのでしょうか。
それは丁氏が曹操が曹昂を見殺しにして自分だけ帰ってきたことに激怒していたためです。
そのため彼女は曹操の言葉を一切無視して彼を許すことをしませんでした。
三国志の時代にいた烈女達その3:劉備の息子を守り抜いた婦人・麋夫人
劉備は長いあいだ劉表の客として荊州で居候をしておりましたが、
曹操軍が河北を統一して荊州を攻撃するために南下を開始。
荊州は劉表死後、息子が荊州の主に君臨しますが、
曹操軍南下の知らせを聞いた劉表の息子は曹操軍に降伏することにします。
荊州の主が降伏することを知らされなかった劉備は荊州から逃れるため、
民衆を連れて逃亡を開始します。
しかし曹操軍は劉備軍を追撃するために軽騎兵を用いて急追。
劉備軍は民衆を連れていたため、逃亡速度が遅く長坂で捕捉されてしまいます。
劉備の奥さんである麋夫人(びふじん)は曹操軍に追撃されてしまいますが、
自分の息子ではない劉禅を必死に守りながら逃げ続け、
趙雲(ちょううん)が助けに来たことで危機を脱することになります。
だが麋夫人は深い傷を負っていることからこのまま趙雲と一緒にいては足でまといだと感じ、
井戸に自らの身を投げ捨てて自殺してしまいます。
自分の息子じゃないのに自らの身をとして守り抜いた麋夫人も献身的な烈女と
言えるのではないのでしょうか。
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三国志ライター黒田レンの独り言
上記に登場した烈女と言われる女の人たちは三国志演義に出てくる登場人物です。
もちろん正史三国志の中でも登場する人物ですが、
彼女達が存在していたことが三国志の物語を盛り上げる一因となっていたのではないのでしょうか。
参考文献 潮出出版 キーワードで読む三国志 井波律子著など
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