KOEIのシュミレーションゲーム「三国志」シリーズ。三国志が好きな皆様でしたら一度はやってことがあるのではないのでしょうか。私は魏の国が好きなので歴代の三国志のシュミレーションゲームで選択する国も曹操一択です。曹操の家臣には非常に優秀な武将が多く劉備や孫権などの群雄よりも一歩抜きん出ており、ある程度はサクサクゲームを進めることができます。
しかし領土が広がり始めると敵から領土を守らなくてはならないため、敵と国境を接する城には強力な武将を配置して、敵軍が来たら迎撃しなくてはなりません。そのため初めは多くいた優秀な武将達が、だんだん領土が広がりを見せることによって人材が枯渇してきます。そんな中活躍するのは李通(りつう)です。彼は三国志シリーズによって特技や強さが変わってしまうのでその都度三国志のシリーズで確認しなければなりませんが、パラメータも中堅クラスの能力値を持っており使いやすい武将です。
ゲーム内では中堅クラスの武将である李通ですが、史実の李通はどのような武将であったのかご紹介しましょう。
この記事の目次
人望ある豪族
李通は文聘(ぶんへい)が呉軍を打ち払って、一躍「呉軍キラー」としてその名を轟かせた江夏(こうか)出身の武将です。彼は青年期から侠気(損得を顧みず弱い者などを助ける行動)を行っていたことで、大いに人望がありました。そんな彼は群雄割拠の時代に中華が突入すると汝南(じょなん)で仲間達を誘って挙兵。彼が挙兵した汝南の土地はものすごく荒れておりました。
怒って豪族を殺害
李通は汝南で挙兵するのですが当時汝南はいくつもの大きな豪族が屹立していたことが原因で、荒れ果てておりました。そんな中李通は豪族の一人である周直(しゅうちょく)といわれる豪族と付き合っておりました。彼は周直と会っている時はニコニコしながら雑談をしながら機嫌良さそうに話しておりましたが、内心は大いに彼を嫌っておりました。そこで彼は気に食わない周直を殺害しようと決意。共に汝南で挙兵した仲間を誘いますが、仲間はビビって彼の呼びかけに応じませんでした。そのため李通はひとりで暗殺計画を立てて、実施することになります。彼が立案した暗殺計画は、まず宴会に周直を誘い出し、次に彼に大量にお酒を飲ませて酔っ払った所を殺害する計画を立てます。そしてこの計画に漏れがないか幾度も確認した後に実行。この計画はミスなく成功することになり、周直が持っていた兵力を収めることに成功します。
【奇想天外な夢の共演が実現 はじめての架空戦記】
勢力拡大を続ける
李通はこうして周直が擁していた兵力を手に入れることに成功。また李通は黄巾賊の残党が汝南にきて挙兵したと聞くと、黄巾賊の幹部を引っ捕えることに成功して、有していた兵力を手中に収めます。こうして着実に勢力を拡大していく李通ですが、彼の侠気は勢力が拡大されていく中でも衰えることはありませんでした。
大飢饉発生時に見せた侠気
李通が勢力拡大に成功したとき中原は大飢饉に見舞われてしまいます。汝南も例外ではなく民衆が一生懸命に耕した土地はすべて枯れ果ててしまい、作物が手には入れない状態になってしまいます。この悲惨な状況を目にした李通は食料を求めるべく、自分の財産を使って民衆の食料を買い漁ります。李通が見せた侠気は汝南に割拠していた豪族達の間で知られることになります。その後李通は曹操がメキメキと力をつけている事を知り、自ら彼の下へ趣いて「ぜひあなた様の家臣として仕えたいと思っております。」と配下にしてくれるようにお願いします。曹操は汝南で侠気に溢れ人望のある人物として知られている李通が配下になってくれとお願いしに来たことを喜び彼を配下として向かい入れ、彼が領有している地域の守備を命じます。李通はこうして曹操の配下に自ら馳せ参じることになるのです。そしてここから彼は魏の勇将として名を挙げていくことになります。
初手柄を立てる
曹操は元董卓軍の武将である張繍(ちょうしょく)を降伏を受け入れます。しかし彼は劉表軍からの援軍を得て実行された張繍軍の奇襲攻撃を受けて大敗北。この時自分の息子であった曹昂(そうこう)や親衛隊隊長であった典韋(てんい)など多大な被害を出してしまいます。この奇襲作戦が実行され曹操が危機に陥っているとの報告を受けた李通は、急いで軍勢をまとめて救援に向かいます。彼が到着したときは真夜中でありましたが、張繍・劉表連合軍と戦い打ち払うことに成功します。もしこの時李通軍の到着が遅れていたら、曹操軍はもっと甚大な被害を受けて立ち直るのにかなりの時間を要していたかもしれません。この時の活躍が曹操によって認められ裨(ひ)将軍の位と侯の位を授かります。
袁紹と劉表の誘いを断る
李通はこうして活躍し、曹軍の中でも目立っていくことになります。袁紹と曹操の戦いが近づいて来ると袁紹陣営は曹操陣営の主だった将軍や文官達に声をかけて、味方に付くように手紙を送り始めます。この作戦は功を奏し曹操軍の陣営から多くの人材が、袁紹陣営に寝返りの約束をした手紙を送ります。その証拠に曹操は袁紹との戦いに決着がついた後、袁紹軍の陣営から大量の手紙を発見します。この手紙の内容は自分の武将や文官が袁紹へ寝返りを約束したでした。彼はこの手紙を見た後すぐに全てを焼き払って見なかった事にしたそうです。こうした曹操陣営の切り崩し作戦を行っていた袁紹から李通宛に手紙が届きます。手紙の内容は「曹操は早晩我が軍によって滅びることになるであろう。貴殿においては曹操が滅亡する前に我が軍に参加してもらいたい。もちろんただでとは言わない。味方をしてくれるのであれば、征南(せいなん)将軍の位を授けたいと思っている。」と内応を誘う手紙が来ます。また劉表からも同様の内応を誘う手紙がやってきます。この二通の手紙を見た李通は曹操へ手紙を渡して「私に内応を促すような手紙が来ましたが、両方とも断りました。以後も殿に忠誠を誓って戦い抜いていきたいと思います。」と改めて忠誠を誓う旨を曹操に申し出ます。曹操はこの言葉を聞いて大変感激したそうです。
部下や親戚から強い方に味方するように求められるが・・・
群雄が争う時代は強い方に味方して、命や家を保全してもらうのが常です。この原則は日本の戦国時代や中国のいつの戦で乱れた時代も変わりません。李通の部下や親戚達もこの原則から外れることはありませんでした。彼らは当主である李通が曹操を裏切らないと宣告すると皆大いに驚き、「殿。なぜ弱小である曹操様に忠誠を尽くすのですか。袁紹殿や劉表殿の方が兵も多く領土も広大ではありませんか。」と訴えてきます。すると李通は「バカ野郎。なぜ俺が曹操様を見捨てないかわからないのか。彼は人材を登用して活用することにおいては袁紹なんかと比べ物にならないほどうまい。また曹操様は決断力に富んでおりこの点も袁紹は及ばないであろう。戦力のみは袁紹の方が強大であるが、君主としての器は曹操様の方が何倍も上である。その為、曹操様に忠誠を誓って味方しているのだ。もし曹操様が敗北して斬られた時には、我も共に斬られるのみである。二度と袁紹や劉表に味方しろなどとの訴えを持ってくるな」と厳命します。この結果李通の部下は彼の決意を知ったことで二度と袁紹や劉表に味方しろと言わなくなります。そして曹操と袁紹の戦いは初めこそ兵力で曹操を圧倒していた袁紹が優勢でしたが、最終的には曹操の適材適所の人材配置と彼の大将としての器の大きさに慕ってきた袁紹軍の参謀からもたらされた情報によって大勝利で終わることになります。李通の人を見る目が正しかったことを曹操の大勝利によって部下達は知る事になります。
南方で騒ぎ出した賊を平定する
李通は官渡城で曹操軍と袁紹軍の攻防が始まると、汝南(じょなん)近辺で賊が反乱を起します。彼らは袁紹に味方することを約束し曹操軍の南方の守備が薄くなったことを知って、反乱を起こして南方攪乱を行います。李通は汝南で反乱が発生ししたことを知ると急いで兵を率いて汝南へ向かいます。汝南に到着した彼はすぐに反乱を起こした賊を討伐して、汝南近辺の反乱を鎮圧。その後他地方で起きていた反乱を起こしていた賊軍を打ち破って、南方において攪乱を起こしていた賊軍はすべて平定されることになります。袁紹軍に勝利を収めた曹操は、李通の功績を褒めたたえた後彼を汝南太守に任じてこの地方の守備を任せます。
曹仁救援に向かう
曹操の天下統一を決める大事な戦であった赤壁の戦い。この戦いは孫権に軍の総司令官を命じられてた周瑜(しゅうゆ)がその智謀の限りを尽くして、考えついた火計と孫家三代に仕えた中心である黄蓋(こうがい)の捨て身の火計実行部隊によって大敗北してしまいます。曹操は華容道(かようどう)を通って退却していきます。彼は本拠地である鄴(ぎょう)へ帰還する際に荊州の重要拠点である江陵(こうりょう)に、曹軍きっての勇将として知られる曹仁(そうじん)や樊城(はんじょう)・襄陽(じょうよう)には徐晃(じょこう)や楽進などの歴戦の武将を駐屯させて、孫呉の軍勢がいつ攻撃を仕掛けてきてもいいように万全の体勢を敷いて退却します。その後周瑜率いる孫権軍が江陵城に対して猛攻を仕掛け、曹仁は周瑜率いる孫権の攻撃を必死になって打ち払い続けます。赤壁の戦いの後汝南に帰還していた李通は自ら軍勢を率いて曹仁救援軍を編成し、曹操に「曹仁殿を救援しに向かいます。」と事後承諾の使者を走らせ、江陵城へ向かいます。
孫権軍の包囲陣を突破して曹仁を救出
李通は急いで江陵城へ向かいます。そして江陵城近辺に到着しますが、孫権軍の包囲陣には逆茂木が至る所に植えてあり、曹操軍が救援軍を派遣してきても容易に孫権軍に攻撃を仕掛けられないようにしてありました。この包囲陣の様子を知った李通は逆茂木の場所に向かって馬を走らせた後、自ら逆茂木を取り払う作業を開始。李通の行動を見た部下達は急いで逆茂木撤去作業を開始して、軍勢が通れる広さを確保します。李通は再び馬に乗って軍勢を率いて進撃し、江陵城を包囲している孫権軍に突撃を開始。彼は孫権軍に真正面から全軍で突撃するのではなく、波状攻撃を仕掛けることによって、江陵城を包囲している孫権軍に痛撃を与えることに成功し、包囲陣の一角が崩壊します。この結果曹仁は陥落寸前であった江陵城から脱出することに成功し、北方へ帰還することができました。
惜しまれた勇将の死
李通は曹仁を江陵城から救出することに成功すると、彼も領地である汝南に向けて退却を開始。しかし彼は汝南に帰る途中に亡くなってしまいます。曹操は彼が亡くなったことを知ると大いに悲しみ、彼を剛侯(ごうこう)の位を追贈します。曹丕は父曹操の跡を継いだ後漢王朝の幕を閉じさせ、魏王朝が開かれることになります。そして魏の皇帝となった彼は袁紹と激しく戦った官渡決戦の時に、曹家に忠誠を尽くした李通を褒めたたえて息子である李基(りき)に父の爵位を継がせることします。
三国志ライター黒田レンの独り言
今回はあまり知られていない魏の勇将シリーズ第一弾として李通を紹介しました。私は三国志のシュミレーションゲームで必ずこの人物を使用して、戦に出陣します。張遼や夏侯惇(かこうとん)、張郃、徐晃らに能力値的には見劣りしてしまいますが、領地が広くなると多面的に攻撃や防御を行わなくてはならないため、強い武将だけを使い続けるわけにはいきません。そんな時にこの李通が非常に役に立ちます。戦をさせても手堅く、また政治においてもまあまあな能力値を持っているため使用できます。史実でも色々な場面で登場しますが、華やかな場所ではなくどちらかというと縁の下の力持ち的な場面で非常に活躍していた武将です。三国志が好きであればこのようなマイナーな武将を知っていくことで、より深く歴史を知ることができるのではないのでしょうか。
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