一介の商人であった呂不韋(りょふい)。
趙で人質となっていた子楚(しそ)を助けてから大きな野望が目を出します。
彼の野望は宰相として国を動かすことでした。
呂不韋は子楚を王位に付けるとために色々な努力をした結果彼を太子にさせることに成功。
そして趙から子楚や彼の奥さんである趙姫、子楚の息子でありながら呂不韋の息子でもある政を
脱出させることに成功し、秦の都、咸陽(かんよう)へ連れてくることができました。
そしてついに己の野望を成就させる時がやってきます。
秦の昭襄王死す・・・・そして安国君が王へ
呂不韋は子楚達を護衛しながら秦の都である咸陽に到着すると、
彼らが他の公族達から命を狙われないようにするために自らが立てていた家に案内して、
彼らを保護します。
子楚を保護してから数年後秦の名君として君臨していた昭襄王(しょうじょうおう)が亡くなります。
昭襄王が亡くなると彼の後継者であった安国君が王位を継ぎます。
安国君は王に君臨すると自らの後継者として子楚(しそ)を指名。
こうして子楚は呂不韋の手元から離れて宮殿に入ることになります。
しかし安国君は王位をついでから一年後に亡くなってしまいます。
昭襄王が長いあいだ王位を保っていたこともあり、安国君が王位を継いだ時には既に老齢の
時期に差し掛かっていたことが原因です。
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子楚ついに王位へそして呂不韋は・・・・
趙の人質生活を含めると数十年間不遇の時代を過ごしてきた子楚はついに、
念願の秦王の位に就任することになります。
彼は秦王に君臨するとまず自らをずっと助けてくれていた呂不韋に侯の位をさずけ、
莫大な領土を与えます。
そして子楚は彼を秦の宰相へ任命して国政を彼に任せることにします。
こうして呂不韋は商人から一気に貴族へ出世し、
野望であった宰相の位へ就任することになります。
周を滅ぼす
秦は他の六国を上回る国力を有して、各国へ攻撃を仕掛けて領土を増大させてきました。
領土を縮小させられている各国の王は周王朝を連合軍の旗頭に据えて秦に対抗。
その原因は色々とありますが、春秋時代から続いてきた王朝である周王朝を旗頭として
連合軍が結成されていたことも原因の一つです。
呂不韋は宰相に就任すると子楚へ「王よ。
各国が連合して秦へたびたび攻撃を仕掛けてくるのは、
周王朝を旗頭としているからです。
現在は無いに等しいこの周王朝を滅ぼすことで、
他国が秦へ攻撃を仕掛けてくる連合軍を結成する意義をなくすためには。
周王朝を滅亡させるしかありません。」と進言。
子楚は呂不韋の意見に従って周王朝の本拠を攻撃。
周軍は秦軍の攻撃に為すすべもなく敗退し、本拠地は陥落してしまいます。
こうして春秋時代から数えて800年ほど続いていた王朝は滅亡することになります。
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呂不韋の隠れ息子である政が王位を継ぐ
子楚は王位となった初年度に周王朝を滅亡させて歴史に名を残すことになるのですが、
在位はたった3年でした。
せっかく王になることができたのにも関わらず3年で亡くなってしまっては、
自分が王になってからやろうとしていたことのほとんどができなかったのではないのでしょうか。
子楚が亡くなると彼の息子であった政が王位の座に付くことになります。
だが呂不韋にとってこの秦王政が自らのくびを絞めることになるとは、
一切思っていたなかったでしょう。
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戦国史ライター黒田レン独り言
こうして秦王政が秦の最後の王として君臨することになります。
後の展開はキングダムで皆さんが知っているとおりですが、
史記だと微妙に違うところが多々ありあます。
キングダムでは呂不韋は政の政敵でしか描かれておりませんが、
司馬遷(しばせん)が書いた史記にはなんと政の父親ははっきりと呂不韋と書いてあります。
するとただの政敵ではなく父と息子の骨肉の争いが秦の国内で行われていたことになります。
キングダムではあまり具体的な暗闘が記されておりませんが、
実際に秦王政と呂不韋の間にどのような暗闘があったのかは今後調べてご紹介したいと思います。
参考文献 十八史略で読む史記 渡邉義浩著など
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—熱き『キングダム』の原点がココに—