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曹操の求賢令が年々過激になっていて爆笑

2017年3月16日


 

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曹操(そうそう)と言えば、唯才のみを挙げよという当時としては斬新な求賢令(きゅうけんれい)で知られます。しかし、この求賢令、実は、三度も出されている事は余り知られていません。ついでに言うと、求賢令、年々内容が過激になっているのです。今回は当時の固定観念と戦った、曹操の苦闘の歴史を紹介します。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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建安十四年、最初の求賢令の発動

 

西暦209年、曹操は最初の求賢令を出します、その内容は以下です。

 

「諸君、我を助けて隠れた人材を照らしだしてくれ、ただ才のみを挙げよ我は、これを得て用いる」

 

曹操は、この才のみを挙げよという言葉の中に、才能さえあれば、人格も出自も問題にしないという意味を込めていました。ところが、辞令を受けた部下は、そうとは思わなかったようで、品行方正で、そこそこ才能がある人を推挙しました。

 

「なんじゃ、こいつらは、全部、正直者の小粒ばかりではないか」

 

曹操は、求賢令を出しても、効果が出ていない事に気がつき、令の内容を具体的なものに変更します。

 

建安十九年、二度目の求賢令

 

西暦214年、曹操は二度目の求賢令を出し、自分が求める人材をもう少し具体的に説明しています。

 

陳平

 

「あーよく聞けよ、品行方正なものが出世するとは限らぬ、出世出来る者が品行方正とは限らぬ、、よく歴史を見よ、陳平(ちんぺい)は品行方正か?蘇秦(そしん)は信義を守ったか?それでも陳平は漢の建国に功積があり、蘇秦は弱い燕を守ったのだ。人材に短所があるからとて、すぐにダメと決めつけてはいかんぞ」

 

このように、過去の人物の例を挙げたので、やや状態は緩和されましたが、役人根性というのは、どうやっても、カテゴリを造るものらしく、「そうか、陳平や蘇秦みたいな人はギリOKなのか」と考え、そうじゃないタイプはやはり省かれてしまったようです。

 

建安二十二年、曹操、ダメ押しの求賢令

 

こうして、陳平、蘇秦のようなタイプの人ばかりが溢れると曹操は、西暦217年、もう一度、求賢令を出す事になります。こうなりゃ、ヤケだ、色々なタイプの人間を混ぜてしまえと、これまでで、最長の求賢令になりました。

 

「伊摯(いし)、傅説(ふせつ)は身分卑しい階級の出である管仲(かんちゅう)は桓公(かんこう)の下僕だ。しかし、皆、用いられて名を残したのだ。

 

 

䔥何(しょうか)曹参(そうしん)は、県の小役人に過ぎず、韓信(かんしん)、陳平はスキャンダルだらけで、世間のモノ笑いだったが、よく王業を補佐して、その名は現在までも伝わっているではないか?

呉起(ごき)は将軍になる為にはどんな事でもしようと、妻を殺してまで信用を得、大金をばら撒いて仕事を求め、母が死んでも自分を優先して帰らない。だが、魏で活躍した時には、秦は恐れて領土を侵さず、楚に移ると、趙・・韓は、敢えて南に攻め込もうと策謀しなかった。今、天下には、至徳の人で世に知られていない人がいる筈だ。戦えば無双の強さを持つ勇者がいる筈だ、文官にして偉才を持ち、国を守るに優れた才能を持つ知者がいる筈だ。スキャンダルにまみれ、人に笑われ、唾を吐かれながらも、あるいは、親の死にも帰らないような親不孝人間でも、兵を扱えば、古今無双の用兵の天才だっている筈である。自分の領地をよくよく調べ、そういう人材が、ただ一人でも放置されるというような事がないようにせよ」

 

曹操、ありとあらゆる人間のタイプを挙げ、一々、懇切丁寧に説明しています。

 

「身分にも行いにも親不孝にも、見た目にも、なーんにも拘らぬ、

ただ、才能があればいいのだ、分かったか?」

 

という曹操の苛立ちが見えるような文章ではありませんか?

 

三国志ライターkawausoの独り言

 

曹操が苦労するほどに、当時、人材とは品行方正で立派な人であるという固定観念が社会を支配していた空気が伝わってきます。ここまで懇切丁寧に人材を求めた曹操ですが、彼の死後には儒教勢力が盛り返し身分制が固定する社会がやってくるのですから、皮肉なものですね。

 

 

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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