曹操(そうそう)と言えば、唯才のみを挙げよという当時としては斬新な求賢令(きゅうけんれい)で知られます。しかし、この求賢令、実は、三度も出されている事は余り知られていません。ついでに言うと、求賢令、年々内容が過激になっているのです。今回は当時の固定観念と戦った、曹操の苦闘の歴史を紹介します。
建安十四年、最初の求賢令の発動
西暦209年、曹操は最初の求賢令を出します、その内容は以下です。
「諸君、我を助けて隠れた人材を照らしだしてくれ、ただ才のみを挙げよ我は、これを得て用いる」
曹操は、この才のみを挙げよという言葉の中に、才能さえあれば、人格も出自も問題にしないという意味を込めていました。ところが、辞令を受けた部下は、そうとは思わなかったようで、品行方正で、そこそこ才能がある人を推挙しました。
「なんじゃ、こいつらは、全部、正直者の小粒ばかりではないか」
曹操は、求賢令を出しても、効果が出ていない事に気がつき、令の内容を具体的なものに変更します。
建安十九年、二度目の求賢令
西暦214年、曹操は二度目の求賢令を出し、自分が求める人材をもう少し具体的に説明しています。
「あーよく聞けよ、品行方正なものが出世するとは限らぬ、出世出来る者が品行方正とは限らぬ、、よく歴史を見よ、陳平(ちんぺい)は品行方正か?蘇秦(そしん)は信義を守ったか?それでも陳平は漢の建国に功積があり、蘇秦は弱い燕を守ったのだ。人材に短所があるからとて、すぐにダメと決めつけてはいかんぞ」
このように、過去の人物の例を挙げたので、やや状態は緩和されましたが、役人根性というのは、どうやっても、カテゴリを造るものらしく、「そうか、陳平や蘇秦みたいな人はギリOKなのか」と考え、そうじゃないタイプはやはり省かれてしまったようです。
建安二十二年、曹操、ダメ押しの求賢令
こうして、陳平、蘇秦のようなタイプの人ばかりが溢れると曹操は、西暦217年、もう一度、求賢令を出す事になります。こうなりゃ、ヤケだ、色々なタイプの人間を混ぜてしまえと、これまでで、最長の求賢令になりました。
「伊摯(いし)、傅説(ふせつ)は身分卑しい階級の出である管仲(かんちゅう)は桓公(かんこう)の下僕だ。しかし、皆、用いられて名を残したのだ。
䔥何(しょうか)や曹参(そうしん)は、県の小役人に過ぎず、韓信(かんしん)、陳平はスキャンダルだらけで、世間のモノ笑いだったが、よく王業を補佐して、その名は現在までも伝わっているではないか?
呉起(ごき)は将軍になる為にはどんな事でもしようと、妻を殺してまで信用を得、大金をばら撒いて仕事を求め、母が死んでも自分を優先して帰らない。だが、魏で活躍した時には、秦は恐れて領土を侵さず、楚に移ると、趙・魏・韓は、敢えて南に攻め込もうと策謀しなかった。今、天下には、至徳の人で世に知られていない人がいる筈だ。戦えば無双の強さを持つ勇者がいる筈だ、文官にして偉才を持ち、国を守るに優れた才能を持つ知者がいる筈だ。スキャンダルにまみれ、人に笑われ、唾を吐かれながらも、あるいは、親の死にも帰らないような親不孝人間でも、兵を扱えば、古今無双の用兵の天才だっている筈である。自分の領地をよくよく調べ、そういう人材が、ただ一人でも放置されるというような事がないようにせよ」
曹操、ありとあらゆる人間のタイプを挙げ、一々、懇切丁寧に説明しています。
「身分にも行いにも親不孝にも、見た目にも、なーんにも拘らぬ、
ただ、才能があればいいのだ、分かったか?」
という曹操の苛立ちが見えるような文章ではありませんか?
三国志ライターkawausoの独り言
曹操が苦労するほどに、当時、人材とは品行方正で立派な人であるという固定観念が社会を支配していた空気が伝わってきます。ここまで懇切丁寧に人材を求めた曹操ですが、彼の死後には儒教勢力が盛り返し身分制が固定する社会がやってくるのですから、皮肉なものですね。