秦の始皇帝は天下統一間際に暗殺されそうになります。
しかも一度ではなく二度も暗殺されかけてしまいます。
秦が反乱を鎮圧できずに滅亡してしまうと劉邦がライバル項羽(こうう)を倒して
漢帝国を築き上げます。
彼は漢帝国を築き上げることに成功しますが、疑心暗鬼に掛かってしまいます。
そのため彼に協力してきた韓信(かんしん)や彭越(ほうえつ)黥布などの諸将が劉邦に疑いを
もたれて反乱を起こして殺されてしまいます。
劉邦は天下統一前は人材確保の為、張良や陳平などの有能な人材を尊重し、
謙虚に接しておりましたが、
天下統一後はあまり他人を尊重するようなことをせず傲慢になっていきます。
そのため彼を暗殺して葬り去ってやろうと考えた人々がおりました。
しかし彼らがなぜ劉邦を暗殺しようと計画を立てたのでしょう。
劉邦にそれほど強い恨みを持っていたわけではないのですが、
あることがきっかけで恨みを持つようになり劉邦暗殺計画を立てて彼を殺害しようと試みます。
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趙へ立ち寄る
劉邦は項羽と争っていた時代。
いたるところで反乱が勃発し戦国時代の群雄の子孫や子が故国で立ち上がって
割拠しておりました。
趙の国も陳余(ちんよ)と張耳(ちょうじ)が協力して趙王の子孫を連れてきて趙国を建国。
だが陳余と張耳は意見の対立から喧嘩別れしてしまいます。
張耳はその後劉邦に味方して韓信と共に趙国を討伐して平定。
趙平定戦で活躍した張耳の功績を認めた劉邦は、彼に趙の国を与えて優遇します。
その後天下統一が果たされた後も張耳は趙国の主として君臨しておりましたが、
亡くなってしまいます。
劉邦は張耳の息子へ娘を与えて婚姻関係を結んでいた間柄であったので、
白狼山で匈奴軍との和平が行われた帰り道に趙へ寄って行くことにします。
張耳の息子である張敖(ちょうごう)は劉邦が来ることを知ると急いで趙の国の道をきれいにしたり、
劉邦をもてなすために食材を集めて豪勢な料理を作り、彼を待ち受けます。
傲慢な態度を取り続ける
劉邦は趙の国へ入ると張敖の歓迎を受けます。
しかし彼は張敖の歓迎を喜ぶ風でもなく当然のように受けます。
また彼は上座に座って足を投げ出して張敖の家臣達を怒鳴りつけて指示を与える始末です。
この劉邦の態度に激怒したのは趙王・張敖ではなく
趙の大臣である貫高(かんこう)・趙午(ちょうご)でした。
張敖にブチギレる
貫高と趙午は張耳の時代から食客として側に仕えており、礼儀を重んじる人達でした。
そのため劉邦の無礼な態度にブチギレて張敖へ「王よ。なぜ劉邦を注意しないのです。
王が誠心誠意尽くしているのにも関わらずあやつはあんなに無礼な態度をとっているのですぞ。
激怒してもいいでしょう。」と張敖を責めます。
しかし張敖は「お前たちやめないか。陛下は我が義父であり漢の皇帝であるぞ。」と注意します。
だがふたりは張敖の注意を聞かずにその場を立ち去ってしまいます。
劉邦暗殺計画始動
ふたりは家臣を集めて密議を交わします。
貫高は激怒しながら趙午へ「王はダメだ。我らで劉邦を暗殺しようではないか。
無礼な態度を取った劉邦へ天誅を行おうぞ」と述べます。
趙午も貫高の意見に賛成し、家臣達も賛成したことで暗殺計画は始動することになります。
綿密な計画を立てるも劉邦の直感によって計画失敗
ふたりは家臣達を柏人と言われる場所に伏兵を置いて、
劉邦がここを通ったらすかさず急襲して一気に劉邦を殺してしまおうとの計画を立てます。
この計画は事前にバレることなく日が過ぎていきます。
そして劉邦が趙の国をあとにして首都へ帰還しようと行軍を開始すると
柏人で一泊してから首都へ行く計画を立てておりました。
しかしこの柏人へ到着すると彼はふと周りを気になり始めて家臣へ
「ここはなんという地名か」と訪ねます。
すると家臣は「柏人と言います」と応えます。
劉邦は「柏人か。文字を崩すとひとが迫ってくるという意味か。なんとなく縁起が良くない。」と
独り言を言ってからこの地を去っていきます。
貫高と趙午は暗殺計画が失敗したことを知り大いに落胆し、
ふたりは「暗殺計画がバレたらすぐに出頭して自分達が企んだことにしよう。
そうすれば王に迷惑をかけないはずだ」と決めておりました。
そのため暗殺計画が失敗しても落胆するのですが、あまり気にかけず政務に励んでいきます。
戦国史ライター黒田レンの独り言
劉邦は項羽と戦っている時からあまり礼儀正しくない性格でした。
特に儒教を学んでいる学者達が大嫌いだったので、
彼らが劉邦に色々と進言すると辟易してしまいます。
また劉邦はある儒者の言っていることに苛立ち彼が付けている冠に小便をかけたこともありました。
このようにすこぶる態度の悪い人物でした。
参考文献 史記 司馬遷 和田武司・山谷弘之訳など
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