古今東西、音に聞こえた皇帝、袁術。閣下の名を知らぬ三国志ファンの方々などいないのではないでしょうか?
そんな袁術様から見込まれ、取り立てられた人物がおります。その名は張勲と言い、慧眼をお持ちの袁術様はかの人物の優秀さを見抜き、大将軍に任命いたしました。……と、ここでちょっとストップ。そもそも大将軍に任命って何じゃ?ということで、張勲と大将軍のお話を今日は致しましょう。(文:セン)
この記事の目次
袁術が揚州を支配した頃、張勲と橋蕤が大将軍に昇格
さて、張勲が大将軍に任命されるまでの経緯を。その頃、袁術は揚州を手に入れようとしていました。ざっくり行きますが揚州は袁術のものになります。この時に張勲、橋ズイが取り立てられ、袁術は二人を大将軍に任命しました。
この年が、193年頃のことです。そして重要なことですが、袁術が皇帝を名乗り出してしまうのは197年のことです。
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大将軍とは「小」将軍を統率する「大」の将軍
さて、大将軍とは何か、こちらもざっくりと説明しましょう。
基本的に大将軍と言う役職はなく、大きな戦を指揮する時に、総大将とも言える武将に与える役職です。分かりやすい所を例に出すと、黄巾の乱鎮圧に向かわせられた何進がそうですね。
蜀との戦線に置かれた曹真も、大将軍の地位を与えられています。
そして大将軍ともなると相応の権力が与えられ、開府する権利も持つことができます。ただ国によって人によってこの権力は持たされている、いないの違いがあり、曹真は開府を許されましたが、蜀の姜維などはこの権利を持つことは許されていませんでした。言ってしまうと、大将軍とはかなり格の高い人物となるということです。つまり、大将軍を任命するというのも、それ相応に地位の高い人物となります。
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その頃、袁術は左将軍
ではこの時、袁術自身はどうだったかと言うと。
「袁術さまは皇帝になったでしょ!皇帝だからいちばん偉いの!」
そうですね、自称と言えどタイミングがどうかと言えども、袁術は皇帝を名乗りました。
じゃあ張勲らを大将軍に任命してもおかしくないんじゃないか?というと、おかしいのです。前述したように、張勲らを大将軍に任命したのは、193年。まだ皇帝を名乗ってしまう前、この頃は袁術は左将軍の地位に付いています。
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左将軍の袁術に大将軍の任命権があるの?
はてさて、どうして漢王朝の左将軍にしか過ぎない袁術は大将軍に任命なんかできたのか?
もしかして既にこの時から漢王朝の命運は尽きたことを察していたのか?
実は後々まで繋がる重要な伏線をただ一人作り出していたのか?
もしかしてもしかしてだけどそんなこと何も考えていなかったのか?
袁術様の深慮遠謀など察することは凡才である筆者には難しいですが、いくつか考えられる範囲で想像して見たいと思います。
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実は大将軍ではなく、大軍を率いる大の将軍ではないか?
さて、前述したように大将軍に任命とはこの時点で袁術ができることではありません。というか張勲だけでなく、橋ズイまで大将軍に任命するとかちょっと意味不明です。
という訳で考えられるのは「大」「将軍」ということ。つまり一般的にいう大将軍の地位を与えたのではなく、大軍を率いる、将軍格、としての地位だったということ。あくまで通常の将軍よりは上の地位なだけであって、そこまでの権威を与えた訳じゃない、ということでしょうかね。
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馬日磾を捕らえて官職を与えさせた
もう一つは、この当時の袁術が調子に乗りまくっていた可能性。袁術は左将軍に任命されていたと言いましたが、これを任命したのは李カクです。
李カクはまだこの当時は袁術と仲良くする気が合ったのか、袁術に使者を出して任命しました。そして袁術、この使者を抑留して、部下たちに無理やり官職を与えたと言います。袁術自身が任命したらしいので詳細は分かりませんが、張勲らも調子に乗って「其方は大将軍!」しちゃった可能性もあり得るかもしれません。
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