曹操から超警戒されていた司馬仲達の綱渡り人生

2017年4月23日


 

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諸葛亮の宿敵であった司馬仲達(しばちゅうたつ)。

彼は曹操に仕える前、名士グループの人達から高い評価を受けておりました。

しかし曹操は彼が配下になると彼を信用していなかったのではないかと思える節があります。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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名門一家司馬家

 

司馬懿の家柄は名門で、父司馬防は京兆尹(けいちょういん=首都における知事相当の役職)に

ついており、司馬懿の爺様は頴川(えいせん=荀彧や郭嘉の出身地)の太守になっておりました。

そのため司馬懿は幼少期からしっかりとした教育を受けておりました。

また父司馬防の息子たちは皆優れ、

名前に皆「達」の字がついていたことから司馬の八達と言われる程の秀才ぞろいであったそうです。

 



名士グループから評価を受ける

 

司馬懿は河内(かだい)の出身でこの地方の名士達から大いに期待されており、

幼い頃には河内出身の名士である楊俊(ようしゅん)から

「君は非常の時に大きな才能を見せるであろう」と評価を受けます。

また冀州(きしゅう)出身の名士である崔琰(さいえん)も司馬懿を高く評価をしております。

これらの名士達からの評価を受けたことによって、

司馬懿の名声は一気に高くなっていくことになります。

 

荀彧から推挙を受けて曹操に仕える

 

司馬懿はこうして各地の名士達から高い評価を受けておりました。

そして彼は曹魏の中でトップ名士である荀彧(じゅんいく)からの推薦を受けて、

曹操に仕えることになります。

しかし司馬懿は曹操からの出仕を幾度も断っていると「晋書(しんしょ)」に記載されておりますが、

果たしてこれほどの名士グループから高い評価を受け、

曹操軍の配下の中でトップ名士である荀彧からの推挙を断ることができるのでしょうか。

一度は荀彧の誘いを断ったかもしれませんが、

二度も三度も断ることは無かったのではないのでしょうか。

その理由として名士の先輩から断る意味があまりないように思えるからです。

曹操を嫌っているのであればさっさと国元を出て他国で仕えてしまえば良かっただけです。

しかし曹操に仕えているので、そんなに曹操が嫌いで出仕を断ったのではなく、

儀礼的な感覚で一度断っただけではないのかなとレンは考えます。

 

曹操に仕えて順調に出世するも・・・・

 

曹操に仕えた司馬仲達は曹操が丞相に就任するとすぐに出世していきますが、

要職と言われるような地位に登ることはありませんでした。

また漢中を拠点にしていた五斗米道の教主である張魯(ちょうろ)を討伐した際、

司馬懿は曹操へ「王よ。益州を占領したばかりの劉備軍は、

まだ政権の地盤をしっかりと固めておりません。

今、大軍を率いて管仲から南下して益州へ攻撃を仕掛ければ容易く討伐できると考えます。」と

進言しております。

しかし曹操は「漢中を今手に入れることができたのだ。これ以上攻め込んで行くのはよろしくない」

と言って司馬懿の進言を退けてしまいます。

曹操はどうして司馬懿の進言を取り上げなかったのでしょうか。

司馬懿以外にも色々な人物が(劉曄(りゅうよう)とかが進言しているので一概には言えませんが、

司馬懿を警戒していたのではないのかなとレンは考えます。

曹操は司馬懿が名士グループと密接な関係を持っている人物であることから、

名士達を糾合して自分の勢力を拡大するのではないかと恐れていたため、

彼を要職に就けることもせず彼の進言を採用しなかったのではないのでしょうか。

 

三国志ライター黒田レンの独り言

 

曹操は司馬懿の首が180°回る姿を見て「虎狼の相(ころうのそう)」と言い、

「やつは必ず何事かを胸に秘めている。用いる際は気を付けよ」と曹丕に伝えたそうです。

曹操は司馬懿の才能は素晴らしく有能で用いていたのですが、

司馬懿が従順に今後も従っていくことができるのか不安に思っていたため、

彼を警戒していたのではないのかなとレンは考えます。

 

参考文献 SB新書 三国志「その後」の真実 渡邉義浩・仙石知子著など

 

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黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

三國志が大好きです。オススメのマンガは曹操を描いた蒼天航路がオススメです。三國志の小説のオススメは宮城谷昌光氏が書いた三國志です。好きな食べ物はマグロ、ぶり、アジが大好きな猫です。

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