ハイ、それでは、三国志の世界をいろいろな角度から掘り下げていく
「ろひもと理穂の三国志恐ろしき政争劇」のコーナーです。
司馬氏による魏からの皇位簒奪は、
司馬懿(しばい)から長子・司馬師(しばし)、次子・司馬昭(しばしょう)、
さらにその子の司馬炎(しばえん)と受け継がれていき成就します。
当然のように政敵も多く、悲願を達成するためには多くの協力が必要です。
その力をまとめることで司馬氏は力をつけていったのです。
するとその協力者たちも権力を得ることになります。
そこでまた陰惨な政争が引き起こされるのです。
今回はそんな三国志晩年の政争劇について触れていきましょう。
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超エリート鍾会(しょうかい)
相国、太尉、太傅など重役を歴任したのが鍾会の父の鍾繇です。
潁川郡の名士たちの派閥の筆頭であり、
鍾会もまた4歳で孝経、7歳で論語、13歳で周礼・礼記、
14歳で易経を修め、15歳で太学に入った天才児でした。
毌丘倹や諸葛誕の反乱鎮圧にも武功をあげて文武両面で活躍しています。
もちろん権力の中枢にあった司馬師や司馬昭に重用されました。
西暦262年、この時に魏の実権を握っていたのは、
晋公・相国などを下賜されながらも断っていた司馬昭です。
はじめは側近の賈充が提唱する姜維暗殺の計画に乗り気でしたが、
「晋公となり、また相国にもなろうとしている人は義をもって根本とすべき」
と荀勗に諫められ断念します。
また荀勗は鄧艾と鍾会を同時に蜀に攻め込ませる案を提案します。
司馬昭は承諾し、鍾会を呼び出しました。
このとき鍾会はすでに征蜀の準備を進めており、
そのための地図を持参していたそうです。
荀勗の母は鍾繇の娘です。
荀勗は鍾会に手柄をたてさせるために司馬昭に征蜀大将を推薦したと言われていますが、
実は中央から鍾会を追い出したかったという見方もあります。
司馬昭も鍾会の自滅を願っていたようにも推察できます。
多くの人の懸念通りに、将来を嘱望された鍾会は蜀の地で自らの野心のために破滅します。
このとき荀勗はそのまま司馬昭の側近として残っています。
佐命の勲・羊祜(ようこ)
政争を嫌うイメージの強い羊祜ですが、こちらもまたエリートです。
泰山郡の名士の出で、母は名士・蔡邕の娘。
姉は司馬師の後妻で、妻は夏侯覇の娘です。なかなか強力な人脈を持っています。
司馬炎にも仕え、賈充や荀勗と共に晋王朝建国の功臣「佐命の勲」の一人に数えられています。
羊祜は呉の討伐のために都督荊州諸軍事として最前線に送り込まれました。軍略に優れていたからです。
また、統治にも手腕を発揮し、民衆に慕われ、領地を発展させました。
さらに呉から投降する民衆や武将が多く出たと伝わっています。
呉にも名将・陸抗がおり、互いに力量を認め合っていました。
ここから「羊陸之交」という言葉が誕生しています。
しかし陸抗は病死します。
羊祜は呉を滅ぼすチャンスだと司馬炎(武帝)に上奏し、
王濬を益州諸軍事に任じて造船を急がせますが、
朝廷からの許可はおりませんでした。
おそらくは羊祜の手柄があまりにも大きくなることを恐れた荀勗の反対が障害になったのでしょう。
司馬炎の弟で人望があった司馬攸がいますが、
その義理の父である賈充も征呉には最後まで反対しています。
どのような意図があったのかは定かではありません。
とにかく、佐命の勲の二人までが反対する以上、
司馬炎もそう簡単に許可は出せなかったということです。
羊祜は征呉の許可を待っている間に病死しています。
その後、征呉の総大将に任じられたのは賈充でした。
三国志ライター ろひもと理穂の独り言
戦争は元来、政治的手段の一つです。政治の影響を大きく受けます。
鍾会の征蜀と羊祜の征呉に関しては、その政治的背景がまったく異なっていたというわけです。
今も昔も政治的要素が強くなると、なかなか現場の思うようにはいかないものですね。
皆さんはどうお考えですか。
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