幾多の戦を勝ち抜いて三国一の領土を保有していた曹操(そうそう)。彼を青年期から彼の能力を認めていた人は数多くおり、占い師の許子将(きょししょう)や大喬(だいきょう)・小喬(しょうきょう)の父であった橋玄(きょうげん)など様々な人物達が、彼の優れていた能力を見つけておりました。しかし曹操の友達にも彼を認めている人物がいた事を知っておりましたか。今回は曹操を早くから認めていた友人である王儁(おうしゅん)をご紹介したいと思います。
曹操を認め親しく付き合う仲
王儁は若い頃から名士達から認められており名声は近隣に響いておりました。そんな彼はある日、曹操と出会うことになります。彼は曹操と少し話しただけで彼を認め、曹操に「君には尋常ならざる才能を必ず発揮する場が与えられるであろう」と占い師でもないのに予言めいたことを述べます。曹操も王儁の人柄が好きになり、彼と親しく付き合っていくようになります。
「天下を救うのは君だ!!」by王儁
曹操と王儁は共通の友人である袁紹(えんしょう)の母親が亡くなることを知ると葬儀に参加するべく、彼らの実家である南陽(なんよう)へ向かいます。袁紹の母親の葬儀には多くの参列者がいてその数は一万人以上はおり、壮大な葬儀が行われておりました。この葬儀には従兄弟で後年袁紹と中華全土を巻き込んで壮大な喧嘩を始めることになる袁術も参加しておりました。曹操は葬列に参加しつつ隣にいる王儁に向かって「今、後漢王朝は乱れており、乱れた天下の中心人物となるのは絶対袁家兄弟だと思う。天下の人々を救うために今ここで袁家兄弟を殺してしまおうか。」と葬儀の最中に物騒なことを言います。すると王儁は「バカなことを。天下を統べる人材は、俺の隣にいる曹孟徳(そうもうとく)。君しかいないではないか。」と真面目な顔で答えます。曹操はハニカミながら無言で下へ俯いていたそうです。
戦乱を避けて荊州南部へ
その後曹操は洛陽(らくよう)へ行き王儁は汝南で過ごしておりましたが、彼の名声を聞いて各地の郡守から「すぐに来て欲しい」と要請を受けます。だが彼は拒否して悠々自適な生活を送っておりました。その後黄巾の乱が勃発すると天下は大いに乱れ董卓(とうたく)が長安へ遷都すると袁紹と袁術を中心に各地の群雄が戦いを行い勢力拡大に励み、中華は戦乱の世の中になってしまいます。
王儁は中原が戦乱に包まれると戦乱を避けて荊州の南部へ移住します。彼が荊州南部の武陵(ぶりょう)へ戦乱を避けて移住したことを知った人々は武陵に集まって行き、その数はなんと100家を越すほどの人々が集まったそうです。この地で彼は再び悠々自適な毎日を過ごしていくことにしますが、荊州の主である劉表(りゅうひょう)が袁紹と同盟したことを知ると、友人である曹操が南北から挟まれる状態になり危ないと感じ、急いで襄陽(じょうよう)へ向かいます。
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曹孟徳に味方しなさい
王儁は襄陽に到着するとすぐに劉表に会見を申込みます。数日後、王儁は劉表と会見すると「曹孟徳は天下に二人といない人物で、晋の文公(ぶんこう)・斉の桓公(かんこう)を超える者です。劉表様は遠き者と同盟を結んでおるそうですがもし近くで何かとんでもない出来事が起きた場合、遠き者はどうやってあなた様に助けを送るのでしょうか。
それよりも近き場所にいる曹孟徳と手を組んでいたほうが安全ではないでしょうか。」と進言。しかし優柔不断である劉表は部下でもない人物からの進言を受け入れることはありませんでした。王儁は劉表が自らの意見を受け入れないことを知るとすぐに武陵へ帰っていきます。その後彼は武陵で悠々自適な生活を送り亡くなってしまうのです。
三国志ライター黒田レンの独り言
曹操は荊州を手に入れるとすぐに亡くなっていた王儁の遺体を引き取らせます。そして江陵(こうりょう)に遺体が運ばれると彼の墓を建造して、葬式を行い埋葬したそうです。この葬式の時に曹操は大いに悲しみを表して人前でもワンワン泣いたそうです。三国志演義ではすっかり悪者である曹操ですが、彼を認めていた唯一の友人である王儁の死を嘆いた彼の気持ちに嘘はないでしょう。
参考文献 ちくま文芸文庫 三国志魏書1 今鷹真・井波律子著など