曹操(そうそう)は張魯(ちょうろ)を降伏させて漢中を手に入れた後、
この地に夏侯淵(かこうえん)や張郃(ちょうこう)らを残して撤退しますが、
劉備が大軍を率いて漢中を奪うべく出陣し、
漢中守備軍の総司令官であった夏侯淵を討ち取ってしまいます。
曹操は夏侯淵が討ち取られたことを知ると自ら大軍を出陣させて、
漢中を守るべく出陣します。
曹操が漢中防衛戦に出陣させている間に後漢王朝がいる許では、
大変な事件が起きていたことを知っていましたか。
あまりに劉備と曹操の戦に囚われすぎて見過ごしがちですが、
今回はこのマイナーな事件をご紹介したいと思います。
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魏に服従している後漢王朝を救うべく立ち上がる
曹操が漢中を救出するべく大軍を率いて出陣した頃後漢王朝の皇帝が住んでいる許で、
一人の人物が後漢王朝を救うべく立ち上がろうと計画しておりました。
その名を金禕(きんい)と言います。
彼は後漢王朝の忠臣の家系で代々勤王の志を持っておりました。
そんな彼は魏に服従している状態になっている後漢王朝を救うべく、
吉本(きつほん)、彼の息子である吉邈(きつばく)、
韋晃(いこう)らと許襲撃作戦を計画しておりました。
金禕の許襲撃作戦とは
金禕は彼らが集まると後漢王朝を救うべく作戦を提案します。
彼は吉本らに「このままでは後漢王朝は魏によって滅亡してしまう。
その前に魏を滅ぼすため皇帝が住んでいるこの許で反乱を起こそうと思う。
私は許の駐留軍を指揮している王必(おうひつ)と仲が良いので彼の隙をついて
許で兵士を集めて挙兵しよう。
挙兵する日時だが、兵士が集まった日から数日後の夜としよう
そして彼を殺害して後漢王朝の皇帝・劉協(りゅうきょう)様を擁立してからは、
益州の劉備軍の武将で、
荊州(けいしゅう)に駐屯している関羽へ協力を仰ぐのがいいと思う」と作戦を提案します。
金禕の作戦を聞いた吉本達は皆賛成して兵士を集めるべく行動を開始します。
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許襲撃作戦決行
金禕らは許襲撃作戦の話し合いが終わった後、
細かいことを詰めながらこの作戦に参加してくれる兵士達を集めることにします。
しかし魏軍のような精強な兵士ではなく、
奴隷として許で働いていた者や各家の使用人しか集めることができませんでした。
だが金禕は彼らに「兵士はまあまあ集まったから数日後のよるに許の兵を指揮している
王必へ奇襲攻撃を決行する。
兵を率いるのは吉邈にお願いしたい。」と金禕が相談すると吉邈は快諾。
こうして作戦を決行することが決定します。
そして数日後の夜中、吉邈率いる部隊は王必が住んでいる役所へ攻撃を行います。
金禕は王必の役所に幾人かの内通者を得ており、
彼らが内通すると門が開かれすぐに役所は陥落してしまいます。
しかし王必を殺害することはできませんでした。
勘違いして話してしまう
王必は役所が攻撃を受けるとすぐに逃亡し、
仲のよかった金禕の家に匿ってもらおうと考えておりました。
金禕の家に到着した王必は彼の家の戸を叩くと驚くべきことを知ることになります。
金禕が家の中から王必へ「よくやった吉邈。王必は殺したかい」との返答が返ってきます。
王必はびっくりしてすぐに金禕の家から離れて兵が駐屯している場所に行くと、
兵を率いて金禕の反乱を鎮圧し首謀者であった金禕一派を捕縛し、
処断することに成功します。
三国志ライター黒田レンの独り言
金禕らが反乱を起こした時の状況は千載一遇といえるチャンスでした。
曹操は漢中へ出撃していたため留守にしており、
この時に金禕達がしっかりと計画を立てていれば許を奪うことができたかもしれません。
しかし彼らの反乱に集まった人達は医者や兵権のない人物達が集まっていたため、
成功する確率はかなり低かもしれませんが、
もし成功していれば大変な偉業となっていたのは間違えないでしょう。
参考文献 ちくま文芸文庫 正史三国志魏書1 今鷹真・井波律子著など
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