日本では、すでに江戸時代から大衆文学として人気を博していた三国志演義。
しかし、単純な勧善懲悪のストーリーに大きな変化を加えて日本人好みの
三国志を造り上げたのが、文豪、吉川英治(1892~1962年)です。
彼が中外商業新聞(日本経済新聞)で1939年から1943年まで連載した
三國志は戦後に単行本化して大評判になり、何度も増刷と新訂を繰り返し、
吉川三国志を下敷きとした多くの三国志作品を産み出すに至ったのです。
その一方で、膨大な登場人物を動かす大河小説では作者が忘れてしまい、
作品中で何度も死んでは何事のないかのように甦る武将も出てきてしまいます。
そんな被害者の一人が魏の五大将軍の一人、張郃(ちょうこう)なのです。
張郃、汝南で1度目の死亡フラグ
張郃の吉川三國志での最初の死は、官渡の戦いの直後曹操対劉備の戦いで出てきます。
袁紹を見限って曹操(そうそう)に降った張郃と高覧(こうらん)はその後に
汝南で勢力を築きつつあった劉備(りゅうび)との戦いに投入されます。
しかし高覧は、名将、趙雲子龍(ちょううん・しりゅう)の槍の前にあえなく刺し殺され、
残った張郃も、関羽(かんう)と趙雲の連携プレイで追い詰められ屠(ほふ)られたと
あるのです。
張郃、余命を30年以上残して一度目の死亡です(笑)。
もっとも、屠るという意味には殺すという意味以外にも、敵を撃破するという
意味もあるので高覧と違い、張郃は死んでない負けただけという事も
出来なくはありませんが、でも屠ると書かれたら、死んだと思いますよね・・
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張郃、長坂坡(ちょうはんは)で2度目の死亡フラグ
張郃の二度目の死は、曹操の大軍が劉備を追い詰める有名な長坂坡の戦いです。
必死で逃げる劉備軍ですが流民を従えているので動きが遅く、ついに長坂坡と
言う所で曹操の騎兵に追いつかれて乱戦に突入するシーンです。
ここで曹操軍から背中に張郃と書いた旗を差した騎兵が名乗りを挙げて、
趙雲に突撃します、趙雲と張郃は死闘を繰り広げますが、
趙雲は長剣を引き抜くと張郃を肩口から馬に至るまで斬り裂いて、
大量の返り血を浴びたというのです。
長剣で肩口から馬まで斬り降ろされ、大量の血が噴き出す・・
これは、どう考えても即死と考えて間違いないのではないでしょうか?
ただ、張郃は死んだという記述はない事から、いや死んだとは言えない
という強弁が出来ない事はありません。
でも、この状態で一命を取り留めても、もう武将としては再起不能
のような感じもしないではないですが・・
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張郃、木門道で3度目の死亡フラグ
時代は降って、諸葛孔明(しょかつこうめい)による北伐の後半の事、
人望が厚い張郃は、魏の大軍を率いて蜀軍の前に立ち塞がります。
すると孔明は一計を案じて、部隊をわざと木門道で退却させて、
魏軍をおびき寄せようとします。
総司令官の司馬懿(しばい)は張郃に名セリフ「待て!孔明の罠だ!」を
発動しますが性格が烈火のような張郃はこれを無視して木門道へ突入します。
当然、これは孔明の罠であり、突如として周辺は火に包まれ、
張郃は焼け死んでしまうのでした。
ここでは、「張郃を亡った魏兵は、」や「張郃の戦死は惜しまれた」など
張郃がハッキリ死んだと確認される言葉が出てきます。
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