はじめての三国志をいつも読んで頂いてありがとうございます。
黒田レンです。
ここでいきなり質問ですが、魏の名将と言えば皆さんは誰を思い浮かべますか。
軍師・文官は抜きにしてください。
隻眼の夏侯惇(かこうとん)でしょうか。
それとも進軍の速さは魏軍の中でもトップクラスの夏侯淵(かこうえん)でしょうか。
いやいや魏の名将と言えば蜀の諸葛孔明(しょかつこうめい)と幾度も戦って撃退した実績のある
張郃(ちょうこう)だと言う人もいるでしょう。
人それぞれ名将の定義や活躍した度合い、
思い入れのある人物がいるので異なっているのは当たり前だと思います。
では読者に質問をしているレンはいったい誰が魏の名将であるのか。
レンが考えている魏の名将は…。
合肥(がっぴ)で孫権(そんけん)軍を幾度となく
少ない軍勢で撃退した張遼(ちょうりょう)では、
ないかな思っています。
この張遼まさに魏の名将といえる活躍を合肥でしており、
孫権軍が合肥に10万ほどの兵力で攻めてきた時、
数千の兵力で孫呉の軍勢を見事撃退するだけではなく、
孫権を討ち取る寸前まで追い詰めております。
そのため合肥付近では「遼来来(ちょうりょうがきたぞ)」と言えば、
泣く子も黙るほどの威力があったそうです。
そんなレンが魏の名将と称える張遼ですが、
ラブコールを送っていた人材がいたことを皆さんはご存知でしょうか。
今回は張遼がラブコールを送った武将についてご紹介したいと思います。
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蒋済が推挙した人物
蒋済(しょうせい)は淮水地方一帯で彼の名前を知らない者がいないほどの有名人でした。
そんな彼の名声を聞きつけた曹操は自ら面談して彼の才能に非凡な面を見出して
魏に仕えさせることにします。
曹操は蒋済を自らの配下として加えた時
「淮水地方に胡敏(こびん)と言う優秀な人材が以前いたのだが、彼に息子はいるかね」と訊ねます。
すると蒋済は「はい。います。胡質(こしつ)と言う人物が息子ですが、
彼は父に智謀の点では劣っておりますが、
事を精密に処理することのできる点では父よりも能力のある人物であると聞き及んでおります。」と曹操へ答えます。
この蒋済の話を聞いた曹操は早速胡質を呼び寄せて魏に仕えさせることにします。
揚州に出向する
胡質は曹操に仕えると県令などの職を歴任した後、中央に入って仕事を任されることになります。
中央でもしっかりとした仕事ぶりを見せていた彼ですが、
揚州刺史(ようしゅうしし)であった温恢(おんかい)の元へ出向することになります。
当時温恢は合肥城に役所を置いており、
合肥城の守りを任されていた張遼や李典(りてん)らと一緒に
孫権軍の攻撃を撃退するのが主な任務でした。
胡質も温恢と一緒に合肥城守備の役割を果たすため、
色々と事務作業に終われる日々をすごしておりました。
そん合肥城の守備を任されていた張遼は武周という人物と仲良くしており、
このことは合肥城の将軍連中や温恢、胡質らの文官達も知るところでした。
しかしちょっとした諍いから二人の仲が急激に悪くなってしまうのでした。
【北伐の真実に迫る】
胡質にラブコールを送る
張遼は武周と仲が悪くなってしまったことを合肥城のみんなに知られてしまいますが、
一向に構うことなく普段どおりすごしておりました。
そんな張遼ですが一人の人物に目をつけます。
それは胡質でした。
彼は胡質が緻密な事務処理を行う優秀な事務官と言うことを知り、
揚州の刺史であった温恢へ「君の部下に胡質と言う人物がいるだろう。
そいつを俺の部下として欲しいのだがいいか。」と訊ねます。
温恢は彼の言葉にうなずいて「胡質さえよろしければ、どうぞ引き抜いてください」と承諾。
彼は胡質へ「張遼将軍が君の事を気にいって部下に欲しいと言ってきている。
どうかね。張遼将軍の部下となってみては」と尋ねます。
すると胡質は「私は以前から病気味なっており、
張遼将軍の部下としてお役に立つことができないでしょう。
部下となってもお邪魔になるばかりか足を引っ張ってしまうかもしれませんので、
このお話はお断りさせていただきます。」と丁寧に温恢へ断りの返答を行います。
温恢は張遼へ胡質の言葉を伝えラブコールが失敗したことを伝えます。
張遼はがっくりしてしまいますが、
合肥の名将はこんなことでは胡質のことをあきらめることができませんでした。
そして彼はとある人物のところへ足早に向かっていくのでした。
張遼が向かった先とは…
張遼が向かった先はなんと胡質の部屋でした。
彼はじかに胡質の元を訪れてなぜ自分の誘いを断ったのか理由を聞こうとしていたのです。
胡質は張遼がやってくると部屋の中に向かい入れ「どうしたのですか。将軍」と
自宅へ訪れてきた理由を尋ねます。
すると張遼は「君はどうして私のラブコールを断ったのだね。
今回はこの理由をしっかりと答えてくれなくては帰ることができないんだから」と
ちょっとツンデレ風に答えるのでした。
すると胡質は張遼の部下となることを断った理由を述べるのでした。
「仲がよかったのに仲たがいした人の所にはいけません」By 胡質
胡質は張遼の質問を受けると姿勢を正して
「私がなぜ張遼将軍の部下となることを拒否したのか。
それは将軍が武周殿と喧嘩して恨みを持つようになったからです。
将軍は以前武周殿と親友のように親しく付き合っていたのに、
ちょっとした事で喧嘩となって今では恨んでいると聞き及んでおります。
私は武周殿ほど才能もない者が将軍に恨まれずにいることができるか不安であるため、
将軍の部下となることをお断りさせていただいたのです。」ときっぱりと言い切ります。
この胡質の言葉を聴いた張遼はショックのあまり、
出された飲み物の器を落として割ってしまったそうです。
そして彼は胡質に何もいわずに去っていったそうです。
三国志ライター黒田レンの独り言
合肥の名将である張遼がほれ込んだ胡質。
相当優秀な人物であると言えるのではないのでしょうか。
張遼が人材を見出して部下にして欲しいなんていっている姿が、
レンには想像することができません。
また彼が優秀な人材を部下にしようとするため、
常日頃からしっかりと人材を見ていることにも驚きです。
彼が兵士を率いて戦うことだけでなく、
しっかりと人材を見つけるために日ごろから人にも
興味を持っていたことを現している証左と言えるのではないのでしょうか。
もしかしたら主で人材コレクターである曹操を真似てこのような事をしていたかもしれませんね。
さて張遼は胡質にフラレた後どうしたのでしょうか。
胡質を部下とすることをあきらめた張遼。
しかし胡質の言葉によって目が覚めたのか、
些細なことで喧嘩して恨みあうようになった武周と仲直りをして、
以前のように仲良く付き合っていったそうです。
さらにこの張遼と仲良く付き合っていた武周の子供は非常に有能な人材でした。
司馬懿の孫で初代晋の皇帝となった司馬炎(しばえん)の時代、
武周の子供は幕府を開くことのできる高位の職に就くことになります。
これほど優秀な人物であった武周の息子であるならば、
もしかしたら父親も相当優秀な人物であったかもしれません。
類は友を呼ぶの通りで、張遼が優秀な人物であるからこそ優秀な武周が寄ってくるのことも、
このエピソードの中からうかがうことができるのではないのでしょうか。
参考文献 ちくま学芸文庫 正史三国志魏書 4 今鷹真 ・井波律子著など
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