【張遼ファン必見】なぜ張遼はこんなにカッコいいのか?

2022年2月16日


 

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曹操に立ち向かう劉備と孫権

 

三国志には、劉備(りゅうび)曹操(そうそう)孫権(そんけん)諸葛亮(しょかつりょう)などの主役級の登場人物に対し、脇役ながらも異彩を放つ人物が多く登場します。

 

孫策と孫権

 

主役から脇役に至るまで魅力的でかっこいい武将がたくさん現れるところが、三国志という作品の魅力でもありますね。

 

現代でも人気な張遼

 

今回の記事では、そんな異彩を放つバイプレイヤーの一人である張遼(ちょうりょう)のカッコよさに迫っていきたいと思います。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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張遼のかっこよさその1:死を目の前にしてもひるまない毅然とした姿勢

高順と張遼

 

張遼はもともと并州雁門(へいしゅうがんもん)の生まれであり、同じ并州出身の呂布(りょふ)とともに并州刺史の丁原(ていげん)に仕えていました。その後、丁原を呂布が殺すと今度は呂布の主君董卓(とうたく)に仕え、董卓の死後は呂布の配下になります。

 

ヘソにろうそくを刺される董卓

 

皆さんご存じの通り、董卓を暗殺した呂布は各地を転々とし、曹操や劉備と争うことになるのですが、無双の武勇を誇った呂布も曹操の大軍の前に追いつめられ、最後は部下の裏切りに遭い、部下の張遼ともども捕らえられて曹操の前に引き立てられます。この時に張遼が取った態度がなんとも男らしくてかっこいいのです。

 

曹操に命乞いをする呂布と反対する劉備

 

三国志演義』によれば、捕らえられた呂布は曹操に対し、「ワシとお主が組めば天下を狙え(だから生かしてほしい)」と無様にも命乞いをします。

 

しかし、張遼は違いました。張遼は「呂布の匹夫(ひっぷ)め!もはや死あるのみ。何を恐れることがあろうか。」と元同僚にして主君の呂布を叱咤し、曹操に対しては「お前を殺せなかったことが残念だ」と罵倒し、潔く斬られようとします。

 

高順が呂布に疎んじられた理由07 高順

 

「すぐ目の前に死がある、でも命乞いすれば生きられるかもしれない」この状況で覚悟を決めてこういった毅然たる態度を取れるのはなかなか常人にはできることではないですよね。こうした潔さ、男らしさが張遼という武将のかっこよさを引き立たせています。

 

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呂布

 

 

 



張遼のかっこよさその2:部下を決して見捨てない男気

関羽の降伏を説得しにいく張遼

 

『三国志演義』によれば、死の間際に男らしさを見せた張遼は、劉備の部下関羽(かんう)の説得もあって曹操に赦され、曹操の部下となります。

 

愛馬に乗り敵を粉砕する張遼

 

その後、張遼は曹操・曹丕(そうひ)の二代に仕え、魏の主力を担う将軍として活躍をみせるのです。魏の武将としての張遼は徐州(じょしゅう)合肥(ごうひ)に駐留し、呉との国境を守っていました。しかし、曹操率いる魏の主力軍が漢中遠征に出た隙をついて、呉の大軍が合肥に押し寄せます。

 

最終的には協力して戦う李典や楽進と張遼

 

これをうけて、張遼は楽進(がくしん)李典(りてん)らとわずかな兵でこれを迎え撃つのですが、張遼は自ら兵を率いて孫権率いる呉軍に立ち向かっていきました。

取り残された部下を助けに行く張遼

 

『正史三国志』によれば、この戦いの最中、張遼軍の一部隊が敵に包囲されてしまいます。包囲された兵たちは「将軍、我々を見捨てるのですか!?」と悲鳴を上げるのですが、これを聞いた張遼は一も二もなく包囲の中に切り込み、包囲された味方部隊を救出するのです。部下を助けるためには、自分の身の危険もいとわない、こういったところが張遼のかっこよさでもあるのですね。

 

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合肥の戦い

 

 

張遼のかっこよさその3:遼来遼来!呉にトラウマを植え付けた伝説的な武勇

張遼 カカロットーーーー!

 

さて、合肥で張遼は孫権率いる呉の大軍をわずかな兵で迎え撃ったわけですが、あまりの激しい戦いぶりに呉軍の士気は下がり、ついには撤退に追い込まれます。

 

甘寧と凌統

 

これを見た張遼は好機を逃すものかとばかりに追撃し、逍遥津というところで孫権の他、呂蒙(りょもう)凌統(りょうとう)蒋欽(しょうきん)甘寧(かんねい)といった呉の猛将たちが率いる殿軍に追いつき、これを散々に打ち破ります。

 

張遼の猛攻に泣きながら逃げる孫権

 

このとき、凌統の部下は壊滅し、凌統は身一つで川を泳いで逃れ、孫権自身もあわや討ち取られるというところまで追い詰められるほどでした。そしてこれ以降も、張遼が魏呉国境を守っている限り、呉は魏の守りを抜くことはできませんでした。

 

泣く子も張遼

 

張遼との戦いは孫権や呉の人々に大きなトラウマを植え付けており、この後に張遼が病に倒れた時も、呉の孫権は「張遼が病気であったとしてもこれに挑んではいけない」と積極的な攻勢に出ることを慎んでいます。それだけ、孫権は張遼を恐れていたということなのですね。

 

張遼が夜泣き対策となった赤ちゃん

 

そして、この張遼の強さは呉の人々の間にも語り継がれ、泣き止まない赤子に「遼来遼来(張遼が来るぞ)」と呼びかけると泣く子も黙るほどでした(ちなみに、「遼来来」は正確な中国語ではなく、『三国志』の著者吉川英治(よしかわえいじ)先生の創作のようです)。

 

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三国志ライター Alst49の独り言

Alst49さん 三国志ライター

 

いかがでしたでしょうか。今回は張遼のかっこよさについて取り上げました。張遼という武将の魅力はもちろんこの記事で語り尽くせるものではありません。

 

張遼・楽進・李典

 

この記事を読んで張遼という武将に興味を持ったという方は、ぜひ三国志を手に取って張遼という人物の魅力を皆さんなりに感じていただければ幸いです。

 

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張遼

 

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Alst49

大学院で西洋古代史を研究しています。中学1年生で横山光輝『三国志』と塩野七生『ローマ人の物語』に出会ったことが歴史研究の道に進むきっかけとなりました。専門とする地域は洋の東西で異なりますが、古代史のロマンに取りつかれた一人です。 好きな歴史人物: アウグストゥス、張遼 何か一言: ライターとしてまだ駆け出しですが、どうぞ宜しくお願い致します。

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