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李典はドライな性格?張遼と李典の関係性から李典の人柄を読み解く

2022年2月7日


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張遼の猛攻に泣きながら逃げる孫権

 

合肥(ごうひ)の戦いと言えば張遼(ちょうりょう)がとんでもないリアルタイム三国無双をやってしまい、孫権(そんけん)は張遼が病気になってもこれを恐れ、しまいには呉の赤ちゃんの夜泣き対策にまで張遼の名が使われるようになった伝説の戦い。

 

李典や楽進と張遼は不仲

 

しかしそんな張遼大暴れエピソードに隠れてちょっといい話として有名なのが、張遼、楽進(がくしん)李典(りてん)が不仲であるにも関わらず協力して呉に当たったということ。今回はこのエピソードから、李典の性格を振り返ってみましょう。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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不仲であるにも関わらず

絶体絶命な李典や楽進と張遼は不仲

 

それは215年のこと。呉の大軍が迫る合肥の地において、ここを任されたのは張遼、李典、楽進。圧倒的な兵力差、しかも同僚とは不仲であるという曹操さま人事どうなってんの?と言いたくなる状況の中、国家の大事に私情は挟まないと三人は協力することを誓い合います。

 

後継者争いで悩む孫権

 

この後、とんでもない兵力差を巻き返しての反撃により孫権のメンタルに大ダメージを負わせることになるのは皆さんも良くご存知の話。

 

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合肥の戦い

 

 

 

不仲について

傷だらけでも勇敢に戦う楽進

 

さて三人の不仲についてですが、実は張遼と楽進の不仲については良く分かってはいません。とは言え張遼は元々は呂布(りょふ)軍の武将、楽進は叩き上げ、李典は叔父から三代曹操(そうそう)に仕えているという立場の関係から色々と揉めたのかもしれませんね。しかし、李典と張遼の不仲についてはこの元呂布軍、というのが理由の一つです。

 

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ながら三国志

 

 

李乾の死

 

李典は元々叔父であった李乾(りけん)が曹操に従うようになったという経緯があります。この李乾、呂布のエン州反乱の際に、呂布の配下武将に謀反を持ちかけられて断り、殺害されてしまいました。この配下武将は張遼ではありません。しかし張遼は元は呂布の部下であるので、李典からすれば叔父の仇の一人でもあるのです。

 

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英雄の墓

 

 

李乾が殺害された年月

孔子と儒教

 

これは当時の儒教的観点から言っても許してはならない関係でもありました。因みに李乾が殺害されたのは194年。合肥が215年のことですから既に20年近く経っています。しかし20年という年月は生きていれば長くとも、仇を忘れるには決して短くはない時間でもあるのです。

 

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英雄の死因

 

 

龐徳の逸話:仇敵は忘れじ

ホウ徳(龐徳)

 

それが良く分かるのが、ホウ徳の子のエピソード。かつて樊城(はんじょう)の戦いで関羽に討ち取られたホウ徳。その子は蜀の滅亡時に関羽の子孫を探して全員殺してしまったという話があります。

 

どれだけ時間が経っても一族の仇というのは忘れず、相手が死んでいてたとしても墓を暴いてでも復讐を遂げる……それが当時の価値観でもあったのでした。決して李典が執念深い訳ではありません。

 

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樊城の戦い特集

 

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セン

両親の持っていた横山光輝の「三国志」から三国志に興味を持ち、 そこから正史を読み漁ってその前後の年代も読むようになっていく。 中国歴史だけでなく日本史、世界史も好き。 神話も好きでインド神話とメソポタミア神話から古代シュメール人の生活にも興味が出てきた。 好きな歴史人物: 張遼、龐統、司馬徽、立花道雪、その他にもたくさん 何か一言: 歴史は食事、神話はおやつ、文字は飲み物

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