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【李傕・郭汜祭り 7日目】最期の勝者?仲間達を蹴落し勝ち残った董承(とうしょう)

2017年8月25日


 

 

董承(とうしょう)の名前は、曹操(そうそう)暗殺を企てた忠臣として

三国志演義において最も有名です。

そこでの立ち位置は、曹操に蔑ろにされる献帝に対して心から同情する忠臣で、

結果、曹操暗殺計画を画策して失敗し殺されると言うオチになります。

しかし、正史の董承は演義のような忠臣ではなく生々しい権力欲の持ち主、

献帝を操りたい俗物を才智と機転を駆使して次々と葬り最期の勝者になります。

 

前回記事:【李傕・郭汜祭り 1日目】凶悪!董卓を上回る暴君李傕の履歴書

前回記事:【李傕・郭汜祭り 2日目】凶暴さでは李傕に劣らない郭汜のバイオレンスライフ

前回記事:【李傕・郭汜祭り 3日目】殺されてしまった悲劇の樊稠(はんちゅう)

前回記事:【李傕・郭汜祭り 4日目】献帝帰還の功労者の惨めな最期 張済(ちょうさい)

前回記事:【李傕・郭汜祭り 5日目】董卓の仇も討てず、気弱な李傕郭汜の上司 牛輔(ぎゅうほ)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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よく分らない出自、董太后の甥? 牛輔の部曲

 

董承については、これまたよく分らない事が多いです。

一説では、献帝の祖母にあたる董大后の甥であると言われています。

もし、そうなら演義における献帝への忠誠は肉親である事から出た情でしょう。

しかし、一方で董卓の娘婿である牛輔(ぎゅうほ)の部曲だったという話もあります。

 

部曲は私兵であり、正規兵でさえありませんから、董大后の甥どころか、

出自も定かではない、どこぞの流民の有象無象という可能性さえありえます。

混乱の後漢末ですから、それこそ流民として食を求めて牛輔の部曲に

加わったという可能性も無くはないのです。

 

無名時代を経て、献帝東遷の時に安集将軍に任じられる

 

そんな董承が、董卓(とうたく)による洛陽、長安での暴政期、王允(おういん)

呂布(りょふ)コンビによる董卓の暗殺、上司である牛輔の無残な最期、

さらには李傕(りかく)郭汜(かくし)による長安奪還までの5年余りを

どこでどうしていたかは不明です。

 

ですが、西暦195年の7月に献帝が張済(ちょうさい)の働きかけにより、

東遷(とうせん;東に移る事)する事に決まった時、すでに安集将軍として、

護衛のメンバーには入っているので、何らかの働きはあったのだと思われます。

こんな目まぐるしい時期に、ちゃっかり献帝を保護するサイドに居るのは

董承に時流を読むしたたかな力があった事の証明でしょう。

 

熱き漢たちが今年の夏も躍進する 李傕・郭汜祭り

 

献帝を強奪しようとした郭汜を楊奉と共に撃破するが、今度は段煨が・・

 

197年11月、長安を出発してから、幾日も経過しない間に、

献帝を弘農にまで送り届ける予定の郭汜がにわかに裏切り、自分の本拠地の郿に

献帝を迎えようとします。

もちろん、そんな事をされてはたまらない、護衛組の張済や楊奉(ようほう)

董承は反撃に転じて、郭汜の軍を撃破しました。

 

やれやれと思ったのも束の間、今度は華陰を支配していた

段煨(だんわい)という群雄が、献帝を迎えにやってきます。

話の流れだと、「段煨も献帝を騙して自軍に迎えてウハウハ」だと思いますが、

この段煨、董卓の配下としては例外的に立派な人で掠奪もせずに、

華陰では農業振興に従事していたので、華陰は豊かでした。

 

元より、野心はなく、東遷する献帝を慰めたいと宴を開こうと考えてきたのですが

献帝の一行には、この段煨と仲が悪い楊定(ようてい)という男がいました。

 

楊定「段煨は帝を引きとめて自分が後見人になるつもりに違いありません

ここで長居しては後が厄介ですぞ」

 

董承も、楊定に賛同し、献帝に讒言します。

 

「すでに段煨の陣営には郭汜の軍勢が入ったようです、

ここは、一刻も早く立ち去るのが最善かと存じます」

 

まさか、董承の讒言とは思わない献帝は、郭汜に怯え、

華陰から出る事を承諾します。

 

結局、段煨と楊定はこの地で合戦になり、李傕・郭汜軍と合流した

段煨は楊定を撃破、楊定は荊州方面に落ちのび、以後消息が知れません。

 

董承は楊奉と結託し、約束を反故にして洛陽行きを目指す

 

さて、献帝の東遷は元々、張済の本拠地である弘農を目指す旅でした。

ところが、弘農に入られれば、献帝は張済の軍勢に守られて、

自分達はお払い箱になると危機感を持った楊奉と董承は結託して、

献帝を洛陽まで連れて行く事を主張します。

 

「元々、洛陽は帝都、長安が荒れ果てた以上は洛陽に戻るべし」

 

「バカな!洛陽は何もかも灰になり宮殿一つない、そんな所に帝を

お連れしてどうするというのだ!!」

 

張済は約束を反故にされて憤慨しますが、軍勢では楊奉が率いている数に

及ばないのか捨て台詞を残して、献帝の護衛から離脱しました。

 

李傕・郭汜DQN軍団と楊奉・董承の白波・匈奴連合軍の死闘

 

しかし、困難はここからでした、長安まで逃げた郭汜は李傕を引き連れ

さらに途中で献帝一行から分離した張済も迎えいれて涼州DQN軍団を結成し、

猛烈な速度で献帝一行に追いすがります。

 

董承と楊奉は焦りますが、先を急ごうにも、文武百官に宮女を連れて、

牛車でノロノロ歩く献帝一行では追いつかれるのは時間の問題でした。

とうとう、東澗でDQN軍団と董承・楊奉軍は戦い、撃破されてしまいます。

ここで、楊奉は滅ぼされてなるかと、古巣、白波師の胡才(こさい)

李楽(りがく)、韓暹(かんせい)さらには南匈奴の左賢王去卑(きょひ)に呼びかけ

これらを援軍として得ることに成功し、曹陽澗では逆にDQN軍団を撃破しました。

 

ところがしつこいDQN軍団は、諦めません、散らばった西涼兵を纏めて

翌月には、さらに献帝一行に追いすがり、再び、董承、楊奉を撃破します。

さすがに今度は董承・楊奉軍が壊滅し、最初の献帝死亡説が流れます。

 

董承、助けを求める百官の指を矛で切り落とし黄河を渡る

 

しかし、僅かな人数になった献帝と文武百官、董承は何とか黄河まで辿りつきます。

船は一隻しかなく、献帝と董承、それに近しい側近を乗せた船は出発しますが、

取り残された官人達が助けて!と絶叫しながら船に縋りつきました。

 

もちろん、全員を乗せる事は出来ません、船が沈んでしまうからです。

「ええい!どけというのが分らんのかぁっ!!」

怒った董承は矛を振り上げると、船べりに手を掛けた官人の指を切り払いました。

 

船底には、切り落とされた官人の指が手ですくえる程に溜まりましたが、

それは、さておき、董承の活躍?で献帝は黄河を越えて安邑に入城します。

 

曹操に接近し、韓暹、楊奉、張楊を追放する

 

この頃、献帝の東遷を知った曹操は配下の曹洪(そうこう)を派遣して

献帝を迎えようとしますが、董承は天子を盗まれてたまるかと、

袁術(えんじゅつ)に救援を求め萇奴(ちょうど)と共に曹洪を攻撃して追い払います。

 

しかし、安心も束の間、しつこいDQN軍団と手が切れたと思えば、

董承には新たな敵が立ち塞がりました。

 

それが、楊奉がDQN軍団を倒す為に引き入れた白波賊の韓暹で、

これが李傕・郭汜にも劣らぬDQNぶりを発揮し始めたのです。

韓暹は献帝を保護した手柄で大将軍になると、有頂天になり

配下に勝手に官職をばら撒き、好き放題に振る舞い出します。

 

董承はこれに異議を唱えて対立、韓暹に攻撃され難を逃れる為に、

張楊のアドバイスで、先に洛陽に降りていき宮殿などの改築を始めます。

 

同年7月、献帝一行が洛陽に入ります、しかし韓暹の態度は相変わらずであり

身の危険を感じた董承は、一度は袁術の配下の萇奴と追い払った曹操に接近、

密かに手引きして曹操軍を洛陽に引き込み、韓暹のみならず、張楊

さらに楊奉も残らず叩きだして、勝ち残る事に成功しました。

 

韓暹ばかりではなく、対立していなかった楊奉や張楊を放り出してしまう点に

この董承の素の性格が透けてみえる感じがします。

 

暗殺計画は失敗、董承は滅ぼされてしまう

 

献帝を曹操に売り飛ばした功績で、西暦199年3月、

董承は車騎将軍となり幕府を開きます。

 

しかし、献帝を保護した曹操は、ますます強大化し董承は

籠の鳥も同然になっていきました。

危機感を抱いた董承は今度は曹操も排除しようと同志の、

王子服(おうしふく)、呉碩(ごせき)、呉子蘭(ごしらん)、

种輯(ちゅうしゅう)、劉備(りゅうび)等と計画して

曹操暗殺を計画しますが、西暦200年の正月、それが露見し、

曹操により一族と首謀者は皆殺しにされました。

 

[李傕郭汜祭]kawausoの独り言

 

李傕郭汜祭のメンバーでは、董承は最大の頭脳派と言えるでしょう。

あんな変転極まりない李傕・郭汜政権の五年間で常に勝ち組のポジションに

居続けられるのは、相当な頭の良さがないと出来ません。

 

ただ、惜しむらくは、曹操を過小評価していた事でしょうね。

曹操を抑え込んで利用できると踏んで、献帝を売り飛ばしたら、

逆に董承以上に上手に献帝を利用されて立場がなくなり、

やけになって暗殺計画を立てて失敗したのです。

 

曹操にとっての董承は自分に献帝という権威の象徴を、

運んでくれたカモネギに過ぎませんでした。

 

最終話「第8話:李傕政権最大の被害者 青春時代を棒に振った献帝については

電子書籍『李傕・郭汜祭り』にて掲載されています。

 

次回記事:『李傕・郭汜祭り』の電子書籍出版のお知らせ

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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