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まだ漢王朝で消耗してるの?第5話:統一国家 晋の礎 司馬懿

2017年9月27日


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西暦190年、破壊者董卓(とうたく)によってトドメを刺された漢王朝は、

およそ30年後、西暦220年に曹魏王朝により一応の政権移譲が達成されました。

しかし、初代皇帝曹丕(そうひ)は在位6年で崩御し後を継いだ曹叡(そうえい)には子供がなく、

西暦239年、養子曹芳(そうほう)を後継者としますが僅か7歳でした。

曹叡は一人の重臣に全てを託す危険性を考え王族の曹爽(そうそう)と重臣の

司馬懿(しばい)を後見としますが、司馬懿は、やがて曹魏を滅ぼす事になります。

 

まだ漢王朝で消耗しているの? 最終話は、曹魏を換骨奪胎(かんこつだったい)し

西晋の基礎を築いた、司馬懿仲達(しばい・ちゅうたつ)について解説致します。

 

前回記事:まだ漢王朝で消耗してるの?第1話:改革なき破壊者 董卓

前回記事:まだ漢王朝で消耗してるの?第2話:早すぎた改革者 袁術

前回記事:まだ漢王朝で消耗してるの?第3話:赤壁の敗戦と新国家の骨格 曹操

前回記事:まだ漢王朝で消耗してるの?第4話:九品官人法 陳羣(ちんぐん)

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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名士に産まれた司馬懿が非名士の曹操に仕える

 

司馬懿仲達は、河内郡、温県孝敬里の人で、楚漢戦争期の十八王の一人、

、司馬卬(しばこう)の12世の孫にあたります。

 

司馬家は、代々、尚書を出す名士であり、玄祖父の司馬鈞(きん)は征西将軍、

曾祖父、司馬量(りょう)は豫州大守、祖父、司馬儁(しゅん)は頴川大守、

父の司馬防は京兆尹(けいちょういん:長安の都知事クラス)という絢爛たる一族で

厳格な気風で育った司馬懿は、好悪の激しい苛烈な性格でしたが、表面上は温和で

寛大な表情を崩す事は無かったと言われています。

 

そんな司馬懿の才能に目をつけたのが曹操(そうそう)で、西暦201年に

河内郡で上計掾(じょうけいえん)に推挙され出仕を命じられます。

しかし、後漢が衰亡していて、亡国の臣となる事を恐れた司馬懿は、

「中風に罹って身動きがままならない」として断りました。

曹操は司馬懿の嘘を疑い、刺客を派遣して「少しでも動いたら斬れ」と命じました。

司馬懿は、それを察知、一晩中、ベッドでじっとして命が助かったそうです。

 

そうまでして辞退した官職ですが、208年に曹操が丞相になると、

再び呼び出され、断るなら逮捕してもしょっぴけと命じられたので、

捕まるくらいならと、渋々と出仕に応じました。

 

文官として出仕したが武官として才能を表す

 

司馬懿は、元々は文官で出仕しました、文学掾に登用されて、生涯仲の良かった

曹丕と共に、下手くそな漢詩を造っていたようですが、やがて、黄門侍郎に転任し、

次に議郎兼丞相東曹の属官となり、それからまもなく主簿になりました。

 

主簿は丞相付属の課長クラスのようですが、曹操と共に各地を転戦したのでしょう。

曹操が張魯(ちょうろ)を討伐した時に、司馬懿は蜀まで併合するように進言します。

その理由は、劉備(りゅうび)はまだ蜀を手に入れて間も無く、今ならば、

これを撃ち破るのは難しくないというものでした。

 

曹操は「人の欲にはきりがない、朧西を得て、なおも蜀を望む事はせん」と言い

光武帝の故事を引いて、そこまで望むのは贅沢と兵を引きました。

ここで、曹操が欲張って劉備を討っていれば、三国鼎立は無かったのでしょうが、

ともかく司馬懿は文官ではなく、武官としての才能を現します。

 

西暦219年、荊州南郡の関羽(かんう)が献帝が在住する許を攻めると、

魏国内でも反乱が起き、狼狽して都を鄴に遷そうとした曹操に、

 

「孫権と劉備は内心、犬猿の仲であり、呉は蜀の勢力拡大を望んではいません

今、荊州南郡を与える事を条件にすれば、孫権は背後から関羽を討ちます」

 

と提言し魏呉の秘密同盟を結ばせ南北から関羽を討ったのは有名な話です。

 

それでも曹操は、司馬懿を重用しようとはしませんでした。

当時、曹操は求賢令を出して、地方の名士層に属するのではなく、

曹操個人に忠誠を尽くす人材で周囲を埋めようとしていたからです。

 

当初は成り上がりの新興勢力であり、否応なく名士を活用した曹操も、

漢であろうと、魏であろうと、呉、蜀であろうと、独自のネットワークで繋がり、

主を変えて生き続ける名士の存在に驚異を感じ、政治の中枢から排除しようと

水面下で戦いを続けていました。

 

その曹操の目から見ると、司馬懿は、やはり、名士層の利益を代表する

使えるけど、厄介な存在に見えていたようで、息子の曹丕にも、

「司馬懿を重用すべからず」と注意を与えています。

 

まだ漢王朝で消耗してるの?

 

 

曹丕の側近の四友に選らばれる

 

西暦220年に曹操が死去すると、曹丕が後漢のラストエンペラー献帝に

禅譲させ魏の文帝となり、曹魏王朝が建国します。

曹丕は、父、曹操が建安七子を置いたように、司馬懿陳羣(ちんぐん)

呉質(ごしつ)朱鑠(しゅしゃく)を抜擢、四友として機密に関与させます。

 

この四友は、曹操の建安七子と同じで、ただの漢詩の同好会グループではなく、

公私ともに権力者の相談を受ける特別な政治集団です。

 

まだ、陳羣の提言により九品官人法が施行されて間もない当時、

政治集団を置かないと、結局、名士を採用して周辺に置くしかなく、

皇帝の権威が名士層により、揺らぐ恐れがありました。

 

ここでも、成りあがりの非名士層から上がってきた曹操の王朝と、

昔からの名門である名士層との水面下の戦いが起きていたのです。

 

ただ、曹丕は父と違い、司馬懿を個人的にも信頼できる人材と考えていて

録尚書事(ろくしょうしょじ)、撫軍大将軍、仮節(かせつ)まで与えて厚遇しました。

 

 

曹丕が死去、政治の素人、曹叡にも重用される・・

 

西暦226年、曹丕が在位6年で死にます、後任は息子の曹叡(そうえい)でしたが、

曹丕が、曹叡の生母を殺し関係が冷却化していた事から曹叡は政治から遠ざけられ

側近と呼べる人がいませんでした。

 

まだ漢王朝で消耗してるの?第5話:統一国家 晋の礎 司馬懿 の続きは電子書籍で読めます。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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