西暦184年、太平道の教祖、張角(ちょうかく)は、36万と号する信徒を率いて蜂起、中原を争乱の渦に叩き落とします。しかし、この計画はやけくその蜂起であり、自滅が約束された道でした。実は、張角には綿密な計画があったのですが、一人の信者の寝返りによりそれは、水泡に帰してしまったのです。
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張角は董卓と同じ事を考えていた
張角の太平道は貧しい庶民ばかりではなく、拡大する間に貴族や金持ちまで信徒が増えていきました、そして、その中には宦官(かんがん)もいたのです。あくどい事をして金を稼いでいた彼らですが、内心では因果に怯えており、太平道の教義に縋り、救済されたがっていました。
張角はこれに目を付け、洛陽の宦官、封諝(ふうしょ)、徐奉(じょほう)を抱き込みにかかります。そこに、腹心の馬元義(ばげんぎ)を洛陽に送り込んで二人と密談し、西暦184年3月5日に、二人が夜中に洛陽の城門を開き、馬元義の軍勢を引き込み城内を制圧し皇帝を抑える作戦を立てます。
これは、天子を擁して堂々、洛陽に入城した董卓(とうたく)のケースと、大体、同じようなやり方だったと言えるでしょう。
皇帝を握れば、外に100万人敵がいてもビクともしない
黄巾賊は洛陽を制圧すると皇帝を捉えて軟禁するつもりでした。そうすれば、黄巾賊を倒す為に漢の軍勢が洛陽を包囲すると皇帝を包囲する事になり朝敵となってしまうからです。以前にも似たような事例が中国にはありました。春秋戦国時代の末、趙の武霊(ぶれい)王は、反乱を起こした長子の公子章(しょう)を自分の宮殿に匿いましたが、それを、もう一人の息子である恵文(けいぶん)王の軍勢が包囲しました。
武霊王は、すでに隠居していましたが、元の王の宮殿を包囲する事になった恵文王は後の禍を恐れ、公子章が戦の傷が元で病死しても宮殿の包囲を解かず、ついに武霊王を餓死させました。それも、これも、王の宮殿を包囲した報復を恐れての事であり、後漢の時代でも、漢の軍勢が洛陽を包囲した瞬間に朝敵になる恐れはありました。
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すべてをブチ壊した元信者 唐周(とうしゅう)
上手く行きかけた張角の計画は、馬元義の配下だった唐周(とうしゅう)の土壇場の密告で失敗しました。3月4日、唐周は皇帝直属の宦官に直訴、明日、太平道によるクーデターが計画されていると洗いざらいゲロしてしまいます。そこから、すぐに馬元義と繋がる封諝と徐奉の身元が割れ、二人は罪を免れようと、馬元義一味の事をしゃべってしまうのです。
こうして、ただちに皇帝命令で追討部隊が組織され、城外で待機していた馬元義一味は摘発、逮捕され三国志によると、車裂きの刑に処せられたと記録されます。
※後漢書では斬首
腹心である馬元義を殺された張角は激怒&追求が自分に延びる事を恐れ黄天を名乗り、武装蜂起するという最終手段に出たのです。綿密に計画した張角の計画は、唐周によってブチ壊されたのでした。
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唐周はその後どうなったのか?
唐周のその後については、分かっていません。どうして裏切ったのか、利益目当てか、計画に怯えてか、或いは、教団に不満があったのか、そこも分かりません。
こんな大事件を起こしたのだから殺されたのではないかとも思いますが、もし、密告者を殺してしまうと、以後、密告する人間はいなくなるのでさらなる内応を期待して、漢王朝は、殺してはいないとkawausoは思います。もっとも、古巣の太平道を裏切った唐周のその後の人生が、順風満帆であったとは言えないかも知れませんね。
三国志ライターkawausoの独り言
こうして考えると、黄巾賊のスローガンの蒼天已死 黄天當立も、急いで拵えたものだったのでしょうか?それにしては、名文句ですが、いずれにせよ、やけくそで蜂起した反乱に先が無いのは、張角も或いは自覚していたかも知れませんね。
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