ハイ、それでは、三国志の世界をいろいろな角度から掘り下げていく「ろひもと理穂の三国志・悪党か英雄か!?」のコーナーです。
歴史上には、大衆に好かれている英雄もいれば、悪党だと後世まで罵られる人物もいます。しかし時代が変われば、歴史への評価も変わるもので、後ろ指を指されていたのが、いつの間にか高い評価を受けていたりするから面白いものです。新選組あたりは明治維新の頃と、現代の人気や評判は180度違いますね。
日本で評価の分かれる人物といえば
他にも日本の歴史でもそういった人物はたくさんいます。例えば、江戸時代に600石の旗本から5万7千石の藩主にまで異例の出世をした老中首座の田沼意次なんていい例ではないでしょうか。学校の社会の授業では賄賂を横行させ、幕政を腐敗させた人物として習った記憶があります。
それを正そうとして松平定信が寛政の改革を実行したとか。でも近年になって、赤字続きの幕府の財政を救い、蘭学を奨励し、身分にとらわれない実力主義の人材登用をした人物として田沼意次の評価は上がっています。資本主義の先駆け的な存在ですからね。宝暦・天明文化もこうして盛り上がりましたし。
裏切り者・魏延(ぎえん)の評価
諸葛亮の死後、謀反を起こしたとして討たれた蜀の猛将・魏延も似たようなケースではないでしょうか。諸葛亮に反抗的で、同僚からも好かれていなかった魏延は悪役のように三国志演義に記されていますが、蜀軍の柱として長く支えてきたことに間違いはありません。
謀叛の汚名にしても楊儀にはめられた感じがありますし、真実の魏延の姿は蜀の忠臣なのでは?という雰囲気も高まってきています。しかし証拠が何も残っていないので覆すまでは至っていないのが現実です。ですから未だに「蜀は応援していても、魏延は嫌い」という声は多いでしょう。「志を遂げるために、健気に、ひたむきに!」という蜀のイメージからかけ離れた言動が魏延には多すぎます。諸葛亮の延命の祈祷を台無しにしたのも魏延という設定ですからね。
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魏延の墓が発掘された?
そんな魏延の墓が発掘されたというニュースが21世紀になってからありました。ただし、確証はまったくありません。完全に憶測ですが、蜀の大司馬だった蒋琬が魏延のために漢中に墓を建立したのではないかというのです。漢中の石馬場という場所になります。ちなみに魏延の最期は、馬岱の追撃に遭って戦死するのですが、その場所は虎頭橋という場所のようです。
三国志演義では魏延の配下となっていた馬岱が背後から魏延を襲撃して討ち取る設定になっています。諸葛亮が生前に馬岱や楊儀と謀っていたようですね。仮に本当に謀叛を起こしていたら墓を建立したのでしょうか。もしかすると、日本でいう菅原道真のように祟り神になることを畏れて墓を建てて鎮魂したのかもしれません。だとしたら魏延は意図して濡れ衣を着せられた可能性があります。
謎の墓は破壊された
しかし、この謎の墓はインフラ工事のために取り壊されたようです。なかなか酷い扱いですが、魏延のイメージが影響していたのかもしれません。石馬場という地名は、この墓に石像が守護神のように建てられていたからのようです。魏延を慕っていた愛馬がモチーフになっているとも伝わっています。そもそも馬岱に討たれた魏延の遺骸を部下たちが引き取って、ここまで運んで埋葬したともいうのです。はたして真相はどうなのでしょうか。
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三国志ライターろひもと理穂のまとめ
あの劉備が漢中太守に抜擢したぐらいですから、やはり魏延にはカリスマ性があったのではないでしょうか。諸葛亮や楊儀、蒋琬らはそれを警戒していたのかもしれません。諸葛亮の最大のライバルは司馬懿ではなく、同じ蜀に属した魏延だった・・・なんていう可能性もありますね。あくまでも可能性の話ですが。
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