自称皇帝、袁術のトホホな部下列伝 Part.3

2015年6月7日


 

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袁術くやしいいい

三国志の群雄の中で秒速のスピードで後漢王朝を見限って、皇帝を自称して仲王朝を興し、これまた秒速で滅んでいった袁術(えんじゅつ)。そんな、トホホな袁術にも、部下はいるのですが、流石袁術の部下だけあり残念な最期を迎えた連中が大勢います。今回も、そんな歴史家が見向きもしないトホホ武将の列伝を記しましょう。

 

前回記事:自称皇帝、袁術のトホホな部下列伝 Part.2

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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死ぬまで一緒な元山賊 楊奉(ようほう)韓暹(かんせい)

暴れる黄巾党008

楊奉と韓暹は、元々、白波賊と呼ばれた河東郡山賊で、黄巾の乱では、これに呼応、というより火事場泥棒的な便乗をして各地で暴れまわりました。

 

献帝の警護をしていた楊奉

楊奉 ゆるキャラ

 

楊奉は、その後、献帝の側近であった董承(とうしょう)の下で献帝の警護をしていましたが、いよいよ、李傕(りかく)の横暴が酷くなったので、献帝を洛陽に移そうと考え、楊奉を通じて、韓暹をボディーガードに引き抜きます。

 

李傕

 

途中で李傕は、これを自分から献帝を引き離す計略だと気づき、軍を出して、これを追撃しますが、韓暹、楊奉はこれを迎撃して見事に献帝を守り抜きました。

 

大将軍に任命された韓暹

韓暹

西暦196年、無事に洛陽に入った献帝は、韓暹を大将軍に任命します。大将軍とは、かつて外戚のトップであった何進(かしん)がついていた、防衛大臣の臨時職ですが、それに元山賊の韓暹が就任したのです。ところが、韓暹は、これですっかり舞い上がり、有頂天になって、自分の配下を勝手に官職につけるなどやりたい放題をします。そこで、元々から献帝を擁護していた董承と路線対立が生じますが、董承には兵力がないので、付近を支配していた曹操に接近して、献帝を曹操に売り飛ばしてしまいます。

 

落ちぶれた韓暹と楊奉

現実主義曹操

 

これで、正当性を失った、韓暹、楊奉はすっかり落ちぶれて、元の山賊に戻り、定陵周辺で略奪行為を行ったので、曹操は討伐軍を派遣して、二人を撃破しました。全てを失った韓暹と楊奉は、放浪の末に、その頃、寿春で皇帝を自称していた袁術を頼りその部将になってしまうのです。西暦197年、袁術は、曹操に対抗する為に呂布の娘と息子を縁組させて同盟を組もうとしますが、呂布の配下の陳圭がこれに猛反対。

 

「あんな自称皇帝と組んだら、身の破滅でっせ、今は帝を擁する曹操と組む方が、100倍お得でス」と説得したので、呂布は直前で袁術との縁談を蹴りました。袁術は怒りに燃えて、呂布討伐の軍を興します。

 

プライドをかけた袁術軍の布陣

袁術 伝説 ゆるキャラ

 

袁術軍は威信を掛けて10万の大軍を動員し、袁術軍オールスター、紀霊(きれい)や張勲、(ちょうくん)陳紀、(ちんき)雷薄(らいはく)、李豊(りほう)、陳蘭(ちんらん)という三国志ファンお馴染みの(誰?)綺羅星のような武将達が(だからこいつら誰?)総出演しますが、その後詰めの兵力とされたのが、韓暹と楊奉でした。

 

呂布と袁術

 

戦争は、袁術軍が終始、押し気味に展開して、あわや呂布もこれまでかという所まで追い詰めますが、ここで韓暹と楊奉が寝返り呂布につきます。

 

韓暹と楊奉は呂布側についた

裏切り 呂布

 

またしても、呂布の参謀の陳圭の手紙で呂布に付いた方が有利と説得されて、即座に正面の袁術軍に襲いかかったのです。正面と背後から挟まれた袁術軍はひとたまりもなく、元々、戦に弱い皇帝袁術は、部下を置き去りにさっさと寿春に逃亡。韓暹は、一人で十人以上の袁術軍の将軍を斬る大活躍をします。

 

おおっ!なんという恩知らず、流石は袁術の部下です。

 

こうして、呂布に裏切り、袁術軍に致命的な打撃を与えた韓暹と楊奉は、呂布軍として海西に駐屯して、ここで略奪行為をしていましたが、そこに呂布の軍勢を奪おうと劉備が接近してきます。

 

劉備によって倒された韓暹と楊奉

劉備玄徳が眩しい理由 三国志

 

劉備は、謀略を用いて韓暹を殺し、さらに逃亡した楊奉も逃げる途中に旧友の張宣という男の軍勢に捕えられ斬首されました。

 

董承、楊奉

 

張宣は劉備派だったようで、楊奉の首は劉備に届けられています。山賊から、大将軍、また山賊、袁術の部下、呂布の部下、また山賊と、なんだかよく分からん履歴を持つ、韓暹と楊奉、その多彩な履歴と裏切りっぷりは、袁術の配下として相応しいと言えるでしょう。

 

次回記事:自称皇帝、袁術のトホホな部下列伝 Part.4

 

袁術祭り

 

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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