魏の国は三国志の時代の中で一番多くの皇帝が登場した国です。初代皇帝・曹丕(そうひ)。二代目皇帝・曹叡(そうえい)の時代に起きた事件はwebなどをはじめ、私達のサイトはじめての三国志でも多く取り扱っています。
しかし4代目皇帝・曹髦(そうぼう)の時代に起きた事件は、webなどでもそんなに取り扱っているところはないでしょう。そこで今回は魏の歴史事件簿と題して、魏の4代目皇帝・曹髦の時代にどんな事件が起きたのか。ここでざっくりとご紹介したいと思います。
この記事の目次
正元元年(255年):新皇帝・曹髦君臨!!
正元元年(255年)。皇帝の位から追放された曹芳に代わって、曹髦(そうぼう)が皇帝に迎えられることになります。しかしこの新皇帝・曹髦が司馬家にとって大きな敵になってしまうのです。
正元二年(256年):文欽・毌丘倹の乱が勃発
曹髦は魏の皇帝へ君臨した翌年。呉の国境に近い淮南(わいなん)地方を任されている、文欽(ぶんきん)と毌丘倹(かんきゅうけん)は、司馬師が魏の皇帝を蔑ろにしてやりたい放題やっている状況に激怒。そして二人は魏の朝廷を司馬師の手から取り戻すため反乱を起こします。司馬師は両者が反乱を起こしたことを知ると自ら出陣し、反乱を討伐することに成功しますが一つの事件が勃発。
その事件は司馬師の本陣へ文欽の息子・文鴦(ぶんおう)率いる軍勢が奇襲を仕掛けてきたことです。司馬師は文鴦の軍勢を打ち払うことに成功しますが、手術していた目の傷が悪化し、反乱を鎮圧後に亡くなってしまうのでした。曹髦は司馬師が亡くなると司馬昭(しばしょう)に跡を継がせて、大将軍の位に就任させます。
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甘露二年(257年):諸葛誕の反乱!!
司馬昭は諸葛誕(しょかつたん)を中央政府に呼び寄せるべく使者を発します。しかし諸葛誕は司馬昭の命令に従わず本拠地・寿春(じゅしゅん)城で反乱。司馬昭は軍勢を率いて諸葛誕を討伐するべく出陣していきます。曹髦は司馬昭からの要請により、反乱討伐軍を激励するべく皇后と一緒に寿春へ向かいます。司馬昭は時間をかけて諸葛誕の反乱の規模を縮めていき、翌年には諸葛誕を捕えて処刑し、反乱を完全に沈黙させるのでした。
甘露三年(257年):晋公へ就任要請があるも・・・・。
曹髦は諸葛誕の反乱を鎮圧した司馬昭へご褒美として、晋公の位と領土の加増を行います。しかし司馬昭は曹髦のご褒美を断ります。曹髦は司馬昭が遠慮して断った事と考え「遠慮しないでもらいなさい」と要請。
だが司馬昭は頑なに曹髦からのご褒美を拒否するのでした。曹髦は意地になって司馬昭へ再度使者を派遣して「もらえよ」と伝えますが、司馬昭はまたまた拒否。こうした二人の茶番とも思えるやり取りが九回も続くことになりますが、結局曹髦が司馬昭の頑固さに折れてご褒美を与えるのをやめるのでした。
甘露五年(259年):「敵は司馬昭だ!!」曹髦ついに挙兵
甘露五年(259年)の四月までは平和でした。曹髦は司馬昭へ諸葛誕のご褒美ととして四月に晋公へ昇進。曹髦は晋公の位に加え相国の位を司馬昭へ与える事にします。ここまでは二人の仲は良好でした。だが甘露五年の五月。二人の仲は急激に悪くなることになります。なぜ二人の仲はいきなり悪くなったのでしょうか。
それは曹髦が司馬昭の権力が強大になっていくことに危機感を募らせたからです。曹髦は晋公に就任した司馬昭に危機感を抱き司馬昭討伐を実行。曹髦の討伐作戦を聞いた側近達は司馬昭を討伐に猛反対します。だが曹髦は側近達へ「敵は司馬昭だ!!」と喚き司馬昭討伐を強行。曹髦は数百人の下僕を率いて司馬昭の元に向かっていき、途中で道を遮った司馬昭の家臣を蹴散らしながら突き進んできます。
しかし曹髦の前に司馬昭の側近・賈充(かじゅう)の軍勢が前をふさぎます。賈充は軍勢を率いている武将から「どうすればいいですか」と指示を仰がれます。賈充は「お前達を養っているのはこのような非常な場合が起きた時のためだ。いいから皇帝を刺し殺せ!!」と武将達へ命令。
武将達は賈充から指示を受けると曹髦の軍勢を蹴散らすべく攻撃を開始します。曹髦の軍勢は訓練された兵士ではないため、賈充の軍勢からの攻撃に耐えられず、次々とやられていきます。曹髦は賈充の軍勢に対して必死に奮戦しますが、力及ばず賈充配下の武将に殺されてしまうのでした。こうして曹髦の戦いは幕を閉じることになります。
はじめての三国志ライター黒田レンの独り言
曹髦は司馬昭討伐作戦が失敗してしまい殺害されてしまうのでした。その後曹髦は皇后から親不孝者扱いにされ、皇帝として埋葬されず王の格式で埋葬されることになります。曹髦は司馬昭討伐に失敗したため皇帝扱いされない、残念な最期を迎えることになってしまうのでした。
参考 ちくま学芸文庫 正史三国志魏書 今鷹真・井波律子訳など
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