夏侯淵って実は主戦場よりも○○で活躍している方が多かった!?

2018年1月8日


 

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曹操軍の中で一番早い部隊を率いた夏侯淵(かこうえん)

三国志を知っている方なら一度は耳にしたことのある武将だと思います。

夏侯淵といえば定軍山(ていぐんざん)の戦いで、

蜀(しょく)の五虎将軍(ごこしょうぐん)の一人・黄忠(こうちゅう)に、

討ち取られたイメージが強いと思いますが、

曹操(そうそう)の初期から仕えた曹操軍団の重鎮です。

今回は曹操軍団の重鎮・夏侯淵にまつわる衝撃の事実をご紹介しましょう。

関連記事:老黄忠に迫る!黄忠が夏侯淵を討ち取ったのは本当に法正のおかげ?

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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衝撃の事実:夏侯淵実は曹操と一緒に戦っている回数よりも賊徒討伐の方が多かった!!

 

魏の重鎮・夏侯淵にまつわる衝撃の事実。

それは曹操と一緒に戦っている回数よりも、

単独で賊徒討伐している回数の方が多いのです。

正史三国志(せいしさんごくし)・魏書(ぎしょ)によると、

夏侯淵が曹操と一緒に戦った回数は、

曹操が挙兵した当時と曹操のライバルで、

当時最大兵力を保有していた袁紹(えんしょう)と戦った官渡(かんと)の戦い

関中(かんちゅう)の豪族達の連合軍を率いた馬超や韓遂の残党討伐戦などあまり多くありません。

夏侯淵は曹操と一緒に戦った回数が少ないのに対して、

単独で賊徒討伐や残党討伐戦の回数の圧倒的に多いのです。

さて夏侯淵が討伐した賊徒の討伐履歴をご紹介しましょう。

 



夏侯淵の討伐履歴

 

夏侯淵の討伐履歴は昌豨(しょうき)討伐戦から始まります。

夏侯淵は昌豨討伐戦では五将軍の一人・于禁(うきん)とタッグを組んで、

降伏させる事に成功。

その後夏侯淵は曹操の領土内で反乱を起こした黄巾賊(こうきんぞく)討伐も

難なくこなすのでした。

更に夏侯淵は揚州(ようしゅう)の盧江(ろこう)で反乱を起こした

賊徒・雷緖(らいしょ)討伐を果たした後、北へ向かい太原(たいげん)郡で、

反乱を起こした賊徒の討伐を行います。

夏侯淵はこのように中国各地で反乱を起こした賊徒を討伐しているのです。

 

まだ漢王朝で消耗してるの?

 

 

他にも多くの賊徒を討伐!!

 

夏侯淵は上記で上げた賊徒達の他にも、

馬超(ばちょう)韓遂(かんすい)が結成した関中十部の残党討伐戦。

涼州近辺を居住地にしていた異民族・氐族(ていぞく)や羌族(きょうぞく)

討伐。

更に涼州(りょうしゅう)が混乱している最中、王国を立ち上げて、

国家を作り上げていた宗建(そうけん)の討伐も行っています。

夏侯淵はここで取り上げた反乱軍の他にも、

曹操の領土内で反旗を翻した他の賊徒などを討伐したりしています。

このように夏侯淵は曹操と一緒に戦った戦歴よりも、

賊徒を多く討伐しているのでした。

曹操と一緒に戦って功績をバシバシ挙げているイメージの強い、

夏侯淵の衝撃の事実をお伝えしました。

 

関連記事:夏侯淵の死後、一族はどうなったのか?

関連記事:【衝撃の事実】夏侯淵の一族にはなんと皇帝がいた!?

 

三国志ライター黒田レンの独り言

 

 

夏侯淵はなぜ曹操と一緒に戦った回数よりも賊徒討伐の方が多いのでしょう。

レンの推測ですが、曹操は夏侯淵を自分で考えて戦を進める将軍として、

成長させたかったのではないのでしょうか。

曹操は袁紹を討伐したあと各地の群雄を倒して、

天下統一を目指していました。

曹操は中国各地に散らばっている群雄と戦うためには、

曹操一人では体がいくらあっても足りません。

そこで曹操は自ら戦いに出て将軍へ指示を与えて戦わせるよりも、

将軍自ら自分で考えて曹操の指示が無くても、

戦いに勝利できる優秀な人材が必要になります。

そのため曹操は自分で考えて戦いに勝利することのできる将軍として、

曹操の挙兵した頃から仕えてきた夏侯淵を育成するため、

賊徒討伐に夏侯淵を出陣させたのではないのでしょうか。

あくまでレンの憶測ですがこのように考えると

曹操と一緒に戦わなかった理由として考える事が出来るのと思いますが、

果たしてどうでしょうか。

 

参考文献 ちくま学芸文庫 正史三国志・魏書 井波律子・今鷹真訳など

 

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