「猪突猛進」という言葉があります。
目標に向って周囲など気にせずに全力で前進していくという行動や性格を指します。
勇敢であり、命知らずの猛者です。
最前線で兵を率いる武将には必要なことかもしれません。
それでは三国志に登場する数多の英雄たちの中でも極めて人気の高い
「陸遜(りくそん)」はどのような性格だったのでしょうか。
今回は陸遜の性格を分析していきましょう。
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陸遜の性格
孫権(そんけん)にとってもっとも頼れる家臣、それが陸遜でした。
21歳から孫権に仕え、63歳までひたすらに忠義を尽くしています。
そんな陸遜の名前を一躍天下に広めることになったのが、
221年から222年にかけて行われた「夷陵の戦い」になります。
このとき孫権が総司令官(大都督)に任じたのが、
歴戦の勇将たちをさしおいて、大軍を統率する経験に乏しい陸遜でした。
率いなければならないのは孫策の時代から孫家に仕える古参の将や王族です。
誰もが陸遜を軽んじ、その指示を聞き流すような状況でした。
陸遜は剣に手をかけて覚悟を示し、一致団結するように説いたといわれています。
しかし諸将の命令違反について、
陸遜は夷陵の戦いの勝利後に孫権に報告しませんでした。
功臣を処罰し、国力を低下させることを不忠だと考えていたからです。
これを知り、孫権は陸遜をさらに重んじ、荊州の牧に任命し、江陵侯に封じました。
夷陵の戦いに諸葛孔明が加わっていたらどうなっていたでしょうか。
「三国志正史」呉書には「臣初嫌之、水陸倶進。
今反舎船就歩、処処結営」とあり、陸遜がもっとも警戒していたのが、
陸と長江の上流の二方面から侵攻してくることでした。
しかし、劉備(玄徳)は陸からのみ攻め寄せ、
多くの要害を設営しましたが、半年後に火計により大敗しています。
諸葛孔明がいたら水上からの侵攻も行い、陸遜をもっと苦しめたのかもしれません。
そうなると陸遜が勝てていたのか微妙ですね。
晩年の陸遜の性格
特に晩年になっても陸遜の性格は変わっていないでしょう。
国事のために諸先輩を叱咤した夷陵の戦いのときのように、
後継者問題でフラフラする主君の孫権に真っ向から諫言しています(書面にて)。
もっとも国を憂いていた人物こそが陸遜だったのです。
「初志貫徹」、我が身の評価など二の次で、
国の大事を優先する陸遜はまさに忠義の士といえるのではないでしょうか。
能力も志もいささかも衰えていませんね。
二宮の変と陸遜
孫権の後継者問題に端を発した政争劇によって孫権からの信頼を失い、
憤死という最期を遂げる陸遜ですが、
多くの家臣を巻き込んだこの後継者争いを「二宮の変」といいます。
三國無双でもぜひこの二宮の変は取り上げてほしいですね。
三國無双8ではどうなのでしょうか。
二宮の変は、陸遜の意思と忠義の強さを物語る注目すべきイベントになるのではないでしょうか。
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三国志ライターろひもと理穂のまとめ
陸遜は、さほど苦労することもなく夷陵の戦いで劉備(玄徳)を
撃退したように思われがちですが、
ジリジリと大軍で侵攻してくる蜀軍のプレッシャーは凄かったでしょう。
早く対応しないと手遅れになると叫び、先走る諸将の統制はさらに困難だったはずです。
私の大好きな作品に「北方謙三先生の三国志」があります。
こちらの夷陵の戦いでの陸遜は、諸将の前で気丈に振る舞っていますが、
実は不安とプレッシャーに押しつぶされそうになるのを日々ひとりで堪えています。
精神的負担は計り知れず、血尿になりながらも必死に好機到来を待つのです。
リスクを最小限に抑え踏ん張りながら、チャンスと見るや攻めに転じる。
現代で為替取引をやらせても確実に億トレーダーになれますね。
「鳴かぬなら鳴くまでまとうホトトギス」。
日本で天下を治めることになる徳川家康の忍耐強さは、
もしかしたらこの陸遜の影響もあったのかもしれませんね。
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