諸葛孔明亡き後、必死に蜀を支えて頑張った大将軍・姜維。姜維は元々魏に仕えていた武将ですが、とある理由から蜀へ降伏し、蜀の武将として仕えることになりました。
しかし姜維は蜀に仕えていながら魏に帰りたい思いを残していたんです。なぜ姜維は魏に思いを残していたのか。今回は姜維が魏に思いを残していた理由を探ってみたいと思います。
天水の麒麟児蜀へ
姜維は天水生まれので鄭玄の学問を好んで学んだそうです。姜維は幼い頃から学問に興味を示していることから、頭のいい青年だったことが伺えます。また天水では姜維の事を麒麟児と呼んで評価が高かったそうです。姜維は天水の上計掾に就職した後、雍州刺史からお呼びがかかり従事になります。
姜維のパパは武官でしたが、異民族から郡を守っていた武将を守って亡くなってしまいます。姜維は姜維パパの功績が取り上げられた事で天水郡の軍事に参与することになるのでした。姜維はある日他の役人達と一緒に天水太守と一緒に巡察へ向かいますが、ちょうどその頃、諸葛孔明率いる蜀軍が雍州へやってきます。
天水太守は蜀軍がやってくるとビビって一人で逃亡して、上邦の城へ入ります。姜維らは太守の後を追って上邦の城へ入ろうとしますが、城門は固く閉ざされて中に入ることができませんでした。姜維達は諦めて他へ向かいますが、他の場所も城を固く閉じて、姜維達を迎え入れることをしませんでした。そのため姜維は蜀軍にしょうがなく降伏し、蜀の武将の一人として蜀に仕えることになります。
母親思いの姜維
姜維は蜀に降伏しますが、母親思いの人でした。民間の伝承によると姜維は父を早くに亡くし、母親と二人で暮らしていたそうです。姜維は10歳になると牛を飼っている農家へ雇われて仕事をしていたそうですが、朝早く仕事をして帰ってきてから家の事をして、母親をいたわっていたそうです。
このように母親思いの姜維はどうして蜀に降伏してしまったのか。上記では致し方なく蜀に降伏したとありますが、これは正史三国志に記載されている物です。他の書物では姜維が蜀に降伏した違う理由が記載されていました。
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母思いの姜維が蜀へ降伏した理由とは
母親思いの姜維はどうして蜀へ降伏することになったのか。魏略ではこのように説明しています。
姜維は天水太守ら他の役人達と一緒に雍州刺史・郭淮と一緒に巡察に出ていたそうです。そんな中、孔明率いる蜀軍がやってくることが知らされます。郭淮は天水太守へ「こいつはやべーな。帰って天水の県庁・冀県を守ってくれ」と要請を受けます。
しかし天水太守は郭淮の要請に理由をつけて冀県へ帰還することを拒否。姜維は天水太守が帰らないことを知って「あなたは冀県に帰って蜀軍から住民を守るべきです」とお願いします。天水太守は姜維の言葉に反発して「うるせぇ~!!俺は帰らん!!帰りたければかってに帰れや!!」と大声でまくし立てます。
姜維は天水太守の言葉を聞いて冀県へ帰ると住民達から「諸葛孔明に会ってきて安全を確保してくれ」と言われます。姜維は住民のお願いを断ることができずに冀県の人々を守るため、孔明の元へ。
孔明は姜維を気に入って冀県の人々を蜀へ移住させようとしますが、街亭で馬謖が敗北してしまったため、蜀軍は姜維を連れて撤退。姜維は蜀軍から母親を守るため、致し方なく蜀軍と一緒に退却し、母親と離れ離れになってしまいます。姜維が蜀に降伏したのは、母親と冀県の住民を蜀軍から守るためでした。
どちらの記載があっているか分かりませんが、一つ言えることは姜維が積極的に蜀へ降伏したわけではないことだけは確かです。さて姜維が蜀へ降伏した後、姜維の母親はどうなったのでしょうか。姜維の母親は冀県にやってきた魏軍に捕まってしまいます。姜維の母は姜維が積極的に蜀へ降伏した訳ではなく、致し方なく蜀へ降伏した事が証明できたため、処刑されずに助かったそうです。
姜維と姜維母のやり取りがマジで泣ける!!
さて姜維は母親と別れ離れになってしまいます。魏は姜維が孔明の元でめきめき成長している事に危機感を感じ、魏に残っている母親を脅して姜維が魏に帰ってくる手紙を書けと脅迫。姜維母は息子を心配していたため手紙を書きますが、下手なことを書いて姜維の立場が危うくなるかもしれないと考え、手紙と一緒に「当帰」と呼ばれる薬草を使者にもたせます。
姜維は母からの手紙を読み終わった後、「当帰」の薬草をみてびっくりします。当帰の意味は帰ってくることができますかと言う意味です。そしてこの薬草「当帰」は魏へ帰ってくることができる??との意味を姜維母が姜維へ問いかけている事になります。
姜維は母の問いかけを察して「遠志」と呼ばれる薬を母へ送ります。姜維母は姜維の手紙と薬草「遠志」を見て姜維が魏に帰ってこれないことを知ります。姜維母はちょっと残念出そうにしていましたが、息子が自分の志を達成するために蜀へ残るのなら致し方ないと諦めたそうです。
こうして二人のやり取りは終わることになります。姜維と姜維母は自由な手紙をかけない状態でした。そのため二人は色々と思案にくれた結果、薬草を使って自分の思いを伝え合っている姿を想像すると目から水がちょびっと出てくるのはレンだけでしょうか。
三国志ライター黒田レンの独り言
姜維と姜維母は分かれてしまいます。しかし孔明は姜維と姜維母のやり取りを知って密かに冀県に使者を派遣。この使者の役目は姜維母を魏から蜀へ連れてくることでした。使者は冀県へ到着し、姜維母を蜀へ連れて行こうとします。すると姜維母は「私は息子が元気にしていればそれでいいんです。」と言って冀県から動こうとしませんでした。
孔明は使者からこの話を聞くと「姜維の母も姜維と同じく賢い女性であったか」と称えたそうです。姜維の母親思いも素晴らしいですが、息子のことを思った姜維母も息子思いのいいお母さんだったのではないのでしょうか。
【参考】ちくま学芸文庫 正史三国志蜀書など
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