三国志というと武将が戦場を騎馬で縦横に駆け回ったイメージがあります。
しかし、それは後世の脚色であり、当時は武官でも馬に乗れない人も
珍しくは無かったようです。
じゃあ、戦場で指揮官は徒歩で指揮を執っていたのか?
その疑問も含めて馬に乗れなかった三国志の武将について解説します。
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この記事の目次
じゃあ武霊王の胡服騎射はどうなるの?
三国志の時代の武将の多くは馬に乗れないと言うと、
じゃあ武霊王の時代の胡服騎射は、どうなるのだ?という疑問が湧きます。
もちろん、春秋戦国時代の趙の武霊王が中国史上初めて騎馬隊を編成したのは
紛れもない事実なのですが、あれは飽くまでも胡(遊牧民)に対抗する為でした。
つまり異民族相手の戦いは騎馬でやり、中原の戦いは変わらず
戦車と歩兵による戦いが続いていたのです。
中原の大地は平地が多く、戦車戦が適していたのであり、
この部分は、三国志の時代でも変化はありませんでした。
魏武註孫子にも戦車の記述は登場する
春秋戦国時代は、三国志の時代より400年は前の話です。
その間に騎兵は中国で浸透したのでしょうか?
実際は、そこまででもない事が曹操の書いた魏武註孫子に出てきます。
現在では、千輌の戦車部隊に3万人の歩兵が付き戦車一輌の将校につき
10騎の騎馬小隊が付属する。
これで見ると、3万人の規模の軍隊では、千輌の軽戦車が付属し、
この戦車部隊を護衛するように1万騎の騎兵がいた事になります。
三国志の時代でも、戦車は千輌単位で存在していたのです。
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でも騎兵も1万騎もいるんじゃないの?
でも、戦車千輌に対して、騎馬は10倍もいるじゃないか?
そういう疑問も起こるでしょう。
しかし、この時代の騎兵は漢民族ではなく烏桓とか匈奴とか鮮卑のような
周辺の遊牧騎馬民族を組み込んだものなのです。
例えば魏の場合には、元々袁紹に与していた烏桓突騎を懐柔して
騎兵として編成していました。
どうして自前で騎兵を持たないのか?簡単な話で維持に大金が掛かるからです。
中国だけではなく、古代のローマやカルタゴでも騎兵は強力な戦力でしたが
自前で用意するには費用が掛かりすぎ、裕福な騎士に頼ったり、
周辺の遊牧民、例えばヌミディア騎兵をレンタルして使いました。
このような騎兵は強くても意思疎通などが大変だった筈で
それを考えれば漢化され中国語を話し、同時に強力な馬術を有する呂布が
群雄に引っ張りダコで、曹操も一瞬、殺すのを躊躇したのも分かります。
馬に乗れない将軍が戦場で使用した容車
では、馬に乗れない将軍が戦争に参加した時には指揮はどうしたのでしょうか?
それは、馬車に乗る事で補われていました。
司令官が乗る馬車は馬一頭で挽き、御者と指揮官が二人で乗るタイプで
天蓋と麾という指揮官の旗を掲げていました。
蜀書の関羽伝には関羽が白馬の戦いで出撃し、
顔良の麾蓋を見つけ近づき、これを刺して首を獲って帰ったとあります。
つまり、顔良は馬に乗らず容車で指揮していた所を見つけられ刺殺、、
不意打ちで関羽に討たれてしまったのです。
顔良というと袁紹軍の猛将ですが、馬に乗れなかったのかも知れません。
もしや関羽も徒歩で近づいたのか?と嫌な予感がした皆さん、
蜀書関羽伝には、馬に策を当てて突撃したと書いているので
ご安心下さい、ちゃんと馬に乗っています。
諸葛孔明というと、演義のイメージで手押し車のイメージがありますが、
実際には、このような容車で指揮を執っていたのかも知れません。
三国志ライターkawausoの独り言
中国で下級官僚が乗馬するようになったのは、
唐の時代であるようです。
この唐王朝は鮮卑系の騎馬民族が主体ですから騎乗に慣れていて
卑しまれなかったのでしょう。
それ以前は、例えば高官が騎馬して帰ったというだけで
高官らしくない卑しいふるまいとして讒言され降格させられた事さえあり、
騎馬は飽くまでも遠乗りのような娯楽として楽しまれたそうです。
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