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【衝撃】馬の乗り方を知らなかった三国志武将

2018年5月3日


 

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張遼

 

三国志というと武将が戦場を騎馬で縦横(じゅうおう)に駆け回ったイメージがあります。しかし、それは後世の脚色であり、当時は武官でも馬に乗れない人も珍しくは無かったようです。じゃあ、戦場で指揮官は徒歩で指揮を執っていたのか?

 

赤兎馬のモデルとなった汗血馬

 

 

その疑問も含めて馬に乗れなかった三国志の武将について解説します。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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じゃあ武霊王の胡服騎射(こふくきしゃ)はどうなるの?

赤兎馬と武霊王

 

 

三国志の時代の武将の多くは馬に乗れないと言うと、じゃあ武霊(ぶれいおう)の時代の胡服騎射(こふくきしゃ)は、どうなるのだ?という疑問が湧きます。もちろん、春秋戦国時代の(ちょう)の武霊王が中国史上初めて騎馬隊を編成したのは紛れもない事実なのですが、あれは飽くまでも()(遊牧民)に対抗する為でした。

 

つまり異民族相手の戦いは騎馬でやり、中原の戦いは変わらず戦車と歩兵による戦いが続いていたのです。中原の大地は平地が多く、戦車戦が適していたのであり、この部分は、三国志の時代でも変化はありませんでした。

 

 

魏武註孫子にも戦車の記述は登場する

曹操

 

 

春秋戦国時代(しゅんじゅうせんごくじだい)は、三国志の時代より400年は前の話です。その間に騎兵は中国で浸透(しんとう)したのでしょうか?実際は、そこまででもない事が曹操の書いた魏武註孫子(ぎぶちゅうそんし)に出てきます。

 

現在では、千輌の戦車部隊に3万人の歩兵が付き戦車一輌の将校につき

10騎の騎馬小隊が付属する。

 

これで見ると、3万人の規模の軍隊では、千輌の軽戦車が付属し、この戦車部隊を護衛するように1万騎の騎兵がいた事になります。三国志の時代でも、戦車は千輌単位で存在していたのです。

 

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でも騎兵も1万騎もいるんじゃないの?

三国志と騎兵

 

でも、戦車千輌に対して、騎馬は10倍もいるじゃないか?

 

そういう疑問も起こるでしょう。しかし、この時代の騎兵は漢民族ではなく烏桓(うかん)とか匈奴(きょうど)とか鮮卑(せんぴ)のような周辺の遊牧騎馬民族を組み込んだものなのです。例えば魏の場合には、元々袁紹に与していた烏桓突騎を懐柔して騎兵として編成していました。

 

どうして自前で騎兵を持たないのか?簡単な話で維持(いじ)に大金が掛かるからです。中国だけではなく、古代のローマやカルタゴでも騎兵は強力な戦力でしたが自前で用意するには費用が掛かりすぎ、裕福な騎士に頼ったり、周辺の遊牧民、例えばヌミディア騎兵をレンタルして使いました。

 

呂布

 

 

このような騎兵は強くても意思疎通(いしそつう)などが大変だった筈でそれを考えれば漢化され中国語を話し、同時に強力な馬術を有する呂布(りょふ)が群雄に引っ張りダコで、曹操も一瞬、殺すのを躊躇したのも分かります。

 

三国志と異民族

 

 

馬に乗れない将軍が戦場で使用した容車(ようしゃ)

献帝(はてな)

 

では、馬に乗れない将軍が戦争に参加した時には指揮はどうしたのでしょうか?それは、馬車に乗る事で補われていました。司令官が乗る馬車は馬一頭で挽き、御者と指揮官が二人で乗るタイプで天蓋(てんがい)()という指揮官の旗を掲げていました。

 

関羽

 

蜀書の関羽伝には関羽が白馬の戦いで出撃し、顔良(がんりょう)麾蓋(きがい)を見つけ近づき、これを刺して首を獲って帰ったとあります。つまり、顔良は馬に乗らず容車で指揮していた所を見つけられ刺殺、、不意打ちで関羽に討たれてしまったのです。顔良というと袁紹軍の猛将ですが、馬に乗れなかったのかも知れません。

 

袁紹と顔良

 

 

もしや関羽も徒歩で近づいたのか?と嫌な予感がした皆さん、蜀書関羽伝には、馬に(むち)を当てて突撃したと書いているのでご安心下さい、ちゃんと馬に乗っています。諸葛孔明(しょかつこうめい)というと、演義のイメージで手押し車のイメージがありますが、実際には、このような容車で指揮を執っていたのかも知れません。

 

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関羽

 

 

三国志ライターkawausoの独り言

 

中国で下級官僚が乗馬するようになったのは、唐の時代であるようです。この唐王朝は鮮卑系の騎馬民族が主体ですから騎乗に慣れていて卑しまれなかったのでしょう。それ以前は、例えば高官が騎馬して帰ったというだけで高官らしくない卑しいふるまいとして讒言され降格させられた事さえあり、騎馬は飽くまでも遠乗りのような娯楽として楽しまれたそうです。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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