皆さん、本日もはじめての三国志へメンソーレータム(鉄板沖縄ギャグ)
さて、編集長kawausoは沖縄県の出身です。
立地条件から日本と同じ位に中国との関係が深い沖縄では、お祝い事にも
中国と共通するものが多くあり、これは沖縄土着だろうと思っていると
ビックリする事が多々あります。
中でも、満一歳のお祝いと占いであるタンカースージは中国由来であるばかりか
その歴史も伝承では、三国志の呉の歴史に繋がるようです。
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この記事の目次
沖縄の将来占いタンカースージを解説
タンカースージとは、直訳すると同列のお祝いになります。
タンカーとは、並ぶ、並列するという意味、スージは祝儀が訛ったものです。
沖縄では、満一歳を迎えた子供をちゃんと人間として完成したと見做し
その成長を祝うと共に儀式を行い、その子が将来にどんな人生を歩むかを
ある儀式をして見定める事をします。
それは、床の上に、お金やノート、鉛筆、計算機、お米、等の生活用品を並べ
赤ちゃんが最初に掴んだアイテムから、将来の職業を占うというもので
例えば鉛筆やノートを選ぶと、作家や画家や公務員になり、計算機やお金なら
銀行員や金融業に就き、お米を選ぶと将来、食べる物に不自由しないと解釈されます。
基本、どれをとっても良い意味しかないので占いというより縁起担ぎですが
沖縄では、かなりポピュラーな行事でよく新聞を賑わします。
文献上最古の抓周は南北朝時代
タンカースージの原型は中国にあった満一歳のお祝い行事の抓周です。
文書として確認できるのは、中国の南北朝期、6世紀末に北斉の顔之推が著した
「顔氏家訓」で、一歳の誕生日には、衣服を新調して、沐浴して着飾り
男子の場合には、矢、紙、筆、女子の場合には、小刀、針、糸、物差しを用意し
さらに男女ともに、食べ物や珍しい玩具や高価な貴金属を加えて円形に並べ
好きに選ばせて子供が最初に選んだ物で、賢愚を占いました。
当時の抓周は沖縄のケースとは違い、玩具や貴金属を選ぶと
貪欲で邪な人間になるとされ両親や祖父母を落胆させたようです。
僅か一歳の子供にさせる占いとしては、ちょっとハードですね。
■古代中国の暮らしぶりがよくわかる■
伝説上の抓周には、呉の孫権が絡んでいた
伝承上の抓周は、さらに400年程起源を遡り三国志の英雄、呉の孫権にたどり着きます。
孫権は当初、皇太子に孫登を立てていましたが、孫登は孫権より先に死にます。
悲嘆にくれた孫権ですが、悲しんでばかりもいられず
皇太子の選定に掛りますが若くして君主になった孫権には、
すでに孫もいる状態で、後宮はわちゃわちゃしていました。
それで後継者選定は捗らず、困っていたのです。
その頃、西湖の景养という無官の庶民が孫権に目通りを願います。
「皇太子を選ぶのは国家の命運を決める重大事で、軽々しくしてはいけません
私に皇太子候補の賢愚を見定める方法がありますのでお任せ下さい」
孫権は、景养の言い分は筋が通っていると思い皇太子の選定を任せました。
後継者は抓周で孫晧に決定する
吉日を選び、景养は宮殿に孫権の幼い皇子たちを呼びます。
そして、様々なアイテムを床に円形に並べてから、
「さあ、皇子様、どれでもお好きな物をお選び下さい」と言いました。
孫権の皇子たちは、ハイハイしながら、アイテムに突進しましたが、
多くの皇子は、ピカピカした翡翠や高価な犀角を掴みました。
ところが、ただ一人、孫和の子供の孫晧だけは、片手に木簡を掴み、
片手に印鑑を結び付ける色付きの紐を選んだのです。
孫権「おお、木簡を手に国務を真面目にこなし印鑑を帯びるとは
翡翠や犀角を選んだ卑しい皇子達に比べて、なんと謙虚で聡明であろうか」
孫権は孫晧の聡明さを喜び、その父である孫和を後継者に選びました。
しかし、たかだか占いで後継者を選ばれてたまるかと他の皇子達の
取り巻きが猛反発して孫覇を擁立、それが二宮の変に繋がり呆れた孫権は、
孫和を廃嫡、孫覇は殺害し僅か7歳の孫亮を後継者に決めたのです。
因果は巡り、孫晧が皇帝になる
孫亮は7歳で即位して7年在位してから、政変で退位し孫休が擁立されました。
その孫休も在位6年で、幼い息子を残し崩御してしまいます。
群臣たちは幼帝では、また外戚が専横を奮うと恐れて、
孫権の血縁の中では、最年長で成人していた孫晧を皇帝に選びます。
孫晧が即位した頃、老臣が20年前の景养の後継者選定方法を思い出します。
老臣「ああ、奇なるかな・・紆余曲折はあったが、
景养の占いは見事に的中した事になった」
この老臣の呟きが話題になり、江南地方では抓周が子供の将来を
決める重要な行事として普及したそうです。
三国志ライターkawausoの独り言
歴史では、孫晧が生まれた時、父である孫和はすでに後継者であり
孫権は孫の誕生を喜び、自ら彭祖という名を与えています。
これを見ると抓周に関係なく孫権は当初から孫和に帝位を譲り、
次の皇帝を孫晧と見定めていたのでしょう。
その後の二宮の変で孫和が廃され、孫晧も一時は死の危険がありながら
孫休の時代に見いだされ、やがて帝位に就いた数奇な運命から
実は、孫晧が帝位に就くのは抓周で予言されていたのだという
物語が創作されたと考えられます。
景养という人も史書には記録がなく、「养」は養う面倒を見るという意なので、
孫晧を皇帝に見出す面倒を見た人として創作された臭いです。
しかし、同時にそれは、当時抓周という習慣が無ければ成立しない話であり
やはり三国志の時代から、江南には抓周はあったのだと思います。
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