三国志演義のように「善と悪」できっちり分けると、
曹操は臣下の身分でありながら後漢王朝を私物化した憎むべき対象であり、
後漢王朝を再興しようと死力を尽くした劉備はまさに理想とすべき人物だからです。
そうなると陸遜(りくそん)はとても微妙な立場になります。
善の象徴である劉備に引導を渡したのが陸遜なのです。
しかし、魏に対してもしっかり抵抗しています。
陸遜の存在って何なのでしょうか?
私なりの考察をお伝えしていきます。
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陸遜のイメージ像
陸遜の一般的なイメージは、名門出のエリートで、
容姿端麗、冷静沈着、何をするにしても器用にこなすことのできる
有能な紳士という感じではないでしょうか。
泥まみれになりながら必死に敵と戦ってとか、パニックになって部下への指示を間違えるとか、
そういった姿はあまりイメージできません。
かといって物凄くカリスマ性を感じるわけでもないです。
ただし、率先して自分が行動をすることで周囲を勇気づける
「リーダーシップ能力」はとても高い印象があります。
不思議に感じる点
陸遜は呉郡の有力な豪族の家柄に生まれています。
陸氏の当主だった陸康(りくこう)は、孫策(そんさく)の攻撃を受けて太守の座を失いました。
陸遜は一族を連れて盧江を逃れるものの、攻め寄せる孫策の姿は見ているでしょう。
陸遜のプライドはかなり傷つけられたはずです。
孫策は陸遜にとって仇のような存在だったはずなのです。
しかし、陸遜は孫策の弟である孫権(そんけん)に仕官しています。
そして孫策の娘を妻に迎えているのです。不思議です。
あの時の屈辱を陸遜は忘れてしまったのでしょうか?
最期まで孫権に忠義を貫く
「孫氏憎し」の気持ちがあれば、どこかで敵方に内通し、
孫権を滅ぼそうとするはずですが、陸遜にその気配はまったくありません。
劉備が大軍で攻め寄せた際にも、勇み立つ諸将を抑え、味方を勝利に導きました。
魏の曹休(そうきゅう)が10万の大軍で攻め寄せた際も同様の活躍を見せています。
さらに孫権が老害で、後継者を巡りトラブルを起こした際にも、
陸遜は孫権を見限ることなく、命がけで進言を続けているのです。
なぜ陸遜は孫権にここまで忠義を貫くことができたのでしょうか?
周瑜を兄のようにリスペクトしていたのではないか
ここからは私の完全な仮想空間になりますが、
陸遜と周瑜(しゅうゆ)には語られていない強い結びつきがあったのではないでしょうか。
陸遜は203年から孫権に仕えていて、210年には周瑜は病没しています。
地位もまったく異なるため、接点はほとんどなかったと考えていいでしょう。
しかし、陸遜が孫権の陣営に名を連ねるより以前に、
周瑜が陸遜の才能に目を付けていたかもしれません。
「英雄は英雄を知る」ってことですね。
あの周瑜に認められたとなると、陸遜もかなり嬉しかったはずです。
そして周瑜の推薦があって、孫権に仕えることになったのでは?
周瑜だって、孫策が亡くなった時には独立して大勢力を築けたはずです。
その器量は間違いなくあります。
しかし周瑜は年下の孫権に仕えました。
その生き様が陸遜に強い影響を与えたのではないでしょうか。
そして、赤壁の戦いで大軍を率いる曹操に屈せず、
火計をもって一撃で粉砕した周瑜の手腕に目を輝かせたに違いありません。
周瑜亡き後、夷陵の戦いでは、自らも劉備の大軍相手に火計を用いて、打ち破ったのです。
孫策と周瑜は断金の交わりを結んでおり、義兄弟です。
孫策の娘ということは、周瑜の姪っ子同然です。
喜んで正妻に迎い入れたことでしょう。
三国志ライターろひもとの独り言
私的には、孫権を支える強い絆が受け継がれて柱となり、
呉の建国に至ったというストーリーを推したいですね。
それが周瑜であり、その周瑜を強くリスペクトする陸遜ということです。
陸遜は、「人の絆が創り上げた国の象徴」だったのではないでしょうか。
だとしたら、さらに三国志は面白い世界に感じることができるんですが。
いかがでしょう?
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