【潼関の戦い】曹操軍の補給を担った杜畿(とき)を解説


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羊を土産に持っていく馬超

 

戦争において一番大事なのは兵站(へいたん)です。

どんなに強い軍隊でも人間が戦う以上は(のど)も渇けば飯も食います。

兵站が保障されなければ、ものの一週間で、その軍隊は瓦解(がかい)してしまうでしょう。

それは、三国志の時代でも同じ事で、どの群雄も兵站には相当な神経を使いました。

潼関の戦いは、曹操(そうそう)にとっては本拠地の(ぎょう)から何百キロも西での戦いであり

兵站が持続できるか否かに勝利が掛かっていました。

そして、潼関の戦いで曹操軍の兵站を一手に担ったのが杜畿(とき)なのです。

 

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無法地帯、河東に赴任させられた杜畿

無法地帯、河東に赴任させられた杜畿

 

杜畿の赴任させられた河東郡(かとうぐん)は、元々袁紹(えんしょう)の影響下にありました。

その影響で、この地の軍閥の衛固(えいこ)范先(はんせん)は袁氏と縁戚である高幹(こうかん)の影響も受け、

隣の弘農郡(こうのうぐん)では黄巾賊(こうきんぞく)の生き残りの張晟(ちょうせい)張白騎(ちょうはくき))が荊州の劉表(りゅうひょう)に通じています。

それでも、当時、王邑(おうゆう)という太守が何とか治めていましたが、朝廷に召集され

河東郡太守の座が空いてしまう事になります。

 

そこで、曹操が困難を克服して河東郡を抑えられる人材を荀彧(じゅんいく)に尋ねると

荀彧は即答で杜畿の名前を挙げ、河東郡への赴任が決まったのです。

 


 

橋を落とされ、役人を殺される、嫌がらせを切り抜ける杜畿

橋を落とされ、役人を殺される、嫌がらせを切り抜ける杜畿

 

この杜畿は幼いころに母を亡くし、継母(ままはは)(いじ)められながら育ちますが、

それでも親孝行を尽くすという非常に寛容で粘り強い性格を持っていました。

その性格は、この河東郡太守になる時にも遺憾なく発揮されます。

新しい太守が来る事を知った衛固(えいこ)は、嫌がらせの為に河東郡に繋がる橋を斬り

無言の抵抗を示しました。

 

曹操は、これを聞いて激怒し夏侯惇(かこうとん)に討伐を命じますが、

杜畿はそれに反対しました。

 

「河東郡には3万戸の人間がいて、多くは衛固が怖くて渋々従っております。

ここで、討伐軍を差し向けると彼らも生き残る為に衛固に従い、

本当の賊になってしまいます。

どうせ衛固は私が気に食わず意地悪をしているだけで

本気で叛くつもりなどありません。

私が一人で行って警戒を解かせ、上手く操ってみせましょう」

 

 

こうして、橋を直す事もなく間道を通って河東郡に入ります。

衛固は杜畿を怯えさせようと役人を数十人殺害しますが杜畿は平然とし

少しも顔色が変わりません。

(おど)しても無駄だと悟った衛固は、渋々面従腹背で仕えるようになります。

 

リアリズムと悪の教科書
君主論

 

衛固、范先に権限を与えて警戒心を解く

衛固、范先に権限を与えて警戒心を解く

 

杜畿は当面は衛固に(あなど)られ警戒心を解くべきだと考えました。

まず衛固を()めそやして都督(ととく)に任命すると同時に(じょう)に任命し、功曹(こうそう)も兼務させます。

また范先には、将校、軍吏、兵卒3000の指揮権を与えて優遇しました。

二人は、杜畿が自分達を怖れて言いなりになるのだと考えて慢心し、

好き放題に振る舞うと同時に、警戒心を解いていきます。

その隙を見て、杜畿は各地で自分の支持基盤を築いていきました。

 

西暦206年、曹操が烏桓討伐に向かった隙を突き并州刺史の高幹が叛きます。

高幹に呼応して、河東郡でも、衛固と范先が数千の兵を募集し始めます。

その時、杜畿は衛固に言いました。

 

「あまり大掛かりに兵を集めては粗悪な兵を集めてしまい損をします。

このような時には少しずつ兵を集めるのがよろしいでしょう」

 

すっかり、警戒心を解いていた衛固は、そうかと思い、

予算をケチって少しずつ金を与えて募兵を行いました。

すると徴兵係は、儲ける為に費用を水増請求し思った程に兵が集まりません。

こうして、ある程度兵を集めた衛固に杜畿は言いました。

 

「募兵しても兵士は家の事が心配で仕事に身が入りません

ここは、交替勤務にして暇を与えてやり恩を与えて人心を得るべきでしょう

なあに、いよいよ援軍が河東郡に入ってから全軍を揃えればいいのです」

 

衛固は、人心を失う事を怖れて今回も杜畿の言う通りにします。

こうして衛固は手持ちの兵を減らしてしまい、逆に杜畿は味方勢力を

増していく事になります。


 

高幹や張晟が攻めてくると張辟に立て籠り反抗

高幹や張晟が攻めてくると張辟に立て籠り反抗

 

かくして、いよいよ高幹や張晟が河東郡に侵略してきました。

衛固も范先も、これに呼応しますが、あまり兵力がありません。

勝機と見た杜畿は味方の十数騎と県城を脱出して張辟に立て籠り籠城、

すると、数日間で4000人もの人民や官吏が杜畿に味方します。

 

高幹や張晟、衛固、范先は連合し力任せに張辟を攻めますが、

城の士気は旺盛で、全く落ちる様子がありません。

やむなく、高幹や張晟は周辺の県を襲い略奪する事しか出来ませんでした。

こうして、時間だけが過ぎていく間に夏侯惇(かこうとん)が大軍を率いて河東郡に入り、

敗北を悟った高幹と張晟は逃亡、衛固と范先は包囲されて敗れ斬首されました。

杜畿は、首謀者以外は全て罪を(ゆる)し帰る事を許しました。


  

 

 

仁政を敷いて河東郡を発展させ天下第一の治績と呼ばれる

仁政を敷いて河東郡を発展させ天下第一の治績と呼ばれる

 

杜畿は衛固と范先を除くと、住民を富ませて真面目に働くように仁政を施します。

その結果、河東は豊かな穀倉地帯になり、211年の潼関の戦いで近隣の弘農郡や

馮翊(ひょうよく)が動揺した時でも河東郡は落ち着いていたと言います。

 

杜畿の仁政で河東郡は穀倉地帯になり、潼関の戦いでは曹操軍10万以上の兵站は

すべて河東郡が賄う事が出来るようになりました。

また、曹操の漢中攻略戦でも兵糧の輸送を担当した上に、一人も逃亡者を出さず

曹操に高く評価され、曹操は俸禄を加増して功績に報いたのです。

 

三国志ライターkawausoの独り言

三国志ライターkawausoの独り言

 

杜畿は十六年の長きにわたり河東郡を統治して、重要な兵站を担いました。

曹操の死後は、任を解かれて司隷校尉(しれいこうい)になり、今度は長安周辺の政治を任され

曹丕(そうひ)が呉を攻めた時には、尚書僕射(しょうしょぼくや)を勤めました。

杜畿の死は変わったもので、曹丕の命令で天子専用の大船を建造し、陶河(とうが)

諸葛誕(しょかつたん)等と試走をしている途中に強風で船が転覆し溺れて死んだそうです。

 

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