潼関の戦いには、関中軍閥のみならず、馬超に呼応した氐族も含まれています。特に興国氐王の阿貴と、白項氐王の千万は三国志に名前が記された氐の王でした。二人はどうして、馬超の蜂起に加わったのでしょうか?その背景と氐族の成り立ちとその後について解説します。
この記事の目次
氐族はどこに住んでいたのか?
※地図は大雑把です
氐族は、春秋戦国時代より陝西省から甘粛省南部にあたる地域に暮らし自らの王を戴いていた民族でした。氐とは漢民族がつけた呼び名で、彼らは自らを盍稚と呼んでいます。しかし紀元前111年に前漢の武帝により武都郡が置かれると氐は土地を追われ、青海湖付近に移動、山間部で暮らすようになります。ただ、すべてではなく、一部の氐は漢族と雑居して暮らすようになり漢語を解し、混血が進んでいくようになります。
元々、半農、反牧で機織りが得意という器用な民族でしたが、華夷秩序の色濃い漢族の間では少数派という事もあり差別を受けており常に不満を抱えているという事もありました。馬超の蜂起に呼応したのはそうした部分もあると思います。
潼関の戦いで蜂起する阿貴と千万
氐族は一つの国家を造っているわけではなく、青氐、白氐、蚺氐という部族が動物や植物の祖先神を信仰し広い地域にバラバラに存在していました。211年の潼関の戦いでは、興国氐王の阿貴と白項氐王の千万という指導者がそれぞれ万の部族を率いて馬超の蜂起に参加しています。ただ、武帝紀や馬超伝、徐晃伝等の史書には、彼ら氐の戦いぶりは、特に示されていません。
戦いに敗れた後、阿貴の率いる興国氐族は追撃してきた夏侯淵に滅ぼされ白項氐族の千万は移動して西南の蜀に入っていきます。ところが、ここも攻められてしまい白項氐族は土地を捨てる事なく、そのまま投降して支配を受け入れました。
潼関の戦い後の氐族
蜀で投降した白項氐族は全員並べられて、最前列と最後列の人々が、扶風、美陽に移転させられたようです。馬超の蜂起に呼応しなかった一団は、そのまま現地に留まり、その後、天水と南安へと別れていきました。しかし、氐族は漢族の郡国に組み込まれても、かならず内部に王を推戴しその指示に従うという習慣は頑なに守っています。これが後に五胡十六国時代に氐族が繁栄する元になります。
張魯に協力し張郃に斬られた興和氐竇茂
三国志の時代の氐族の記録はもう一つあります。それが漢中の張魯に従った興和氐の王、竇茂でしたが張郃によって、撃破されてしまい斬られてしまいました。張魯は、このように氐族を懐柔して自分の駒として使っていたとすると亡命した馬超に兵を与えて曹操を攻撃させたのも馬超の恨みだけでなく積極的に張魯も支援した可能性もありそうです。
曹操に協力し劉備軍の呉蘭を討った陰平氐 強端
氐族は多くの部族に別れていたので、全てが反曹操というわけでもなく、陰平郡の氐王の強端は、逆に曹操に協力し218年に劉備が漢中に張飛、馬超、雷同、呉蘭に2万の兵力を与えて攻め込んだ時に雷同や呉蘭の軍の前に伏兵しており、呉蘭は殺害されました。強端は、呉蘭の首を曹操に送り届けて忠誠を示しています。こちらの強端は235年に武都郡の氐王、苻双と共に6000人を率いて司馬懿に帰順したそうです。
五胡十六国時代に幾つも王朝を興す氐族
氐族は西晋が衰えて八王の乱の時代になると独立傾向を強めていき、成漢、前秦、後涼などを建国していきます。中でも、前秦の苻堅はほとんど華北全域を支配していき、中国を統一する勢いでしたが、383年に東晋との決戦に敗れて、衰退し、その後滅亡しています。その後580年に細々と残っていた最後の氐族国家、仇池が楊堅に滅ぼされ氐族は漢人に同化して消滅しました。
三国志ライターkawausoの独り言
潼関の乱に呼応して蜂起した氐族について執筆してみました。多くの部族に別れていた氐族は、部族単位で関中軍閥についたり、張魯についたり、曹操についたりしていたようです。その後、五胡十六国時代に不世出の英傑、苻堅を出して、華北を統一し、あと一歩で中華統一という寸前まで生きますが東晋との戦いでやぶれ、以後は衰退し漢族に同化して消えたようです。
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