三国志の世界や現代でも背が小さい人は不利に思われがちで、背が伸びなくて悩んでいる方も大勢いると思います。しかし背が小さいからとって不利だと思っているそこのあなた!!それはとんでもない間違いです。チビが不利ではない証拠を三国時代のチビ代表・楽進を紹介しながらチビが不利ではない事を示していきましょう。
チビだけど肝っ玉の激しさで魏軍に仕える
楽進は身長が何センチであったのかを詳細に記している書物はありませんが、正史三国志の作者・陳寿は楽進の体つきが小さいと記載していることから、彼の身長があまり大きくなかった事が伺えます。しかし楽進は身長が大きくない代わりに肝っ玉の激しさを武器にして、曹操へ仕えます。
戦いは一番槍
楽進は曹操に仕えると呂布討伐戦でデビュー戦を飾ります。この時楽進は一番槍を挙げて曹操から褒められることになり、その後張超討伐戦等の戦いで一番槍を挙げて功績を残します。楽進は曹操からこうした手柄を認められて侯の位を与えられることになるのでした。しかし楽進の快進撃はまだまだ止まらないのです。
歴戦の武将達を打ち破っていく楽進
楽進は侯の位をもらって満足するような人物ではありませんでした。楽進はその後張繍討伐戦、呂布が立て篭った下邳城攻略戦でも功績を挙げていきます。更に楽進は劉備が下邳城で反乱を起こすとこの戦いでも手柄を上げるのでした。
そして楽進は官渡の戦いにも参加し、力の限りを尽くして戦っていき、袁紹軍の兵糧集積所・鳥巣攻撃戦にも参加。この時楽進は鳥巣を守っていた淳于瓊を討ち取ることに成功しています。楽進は官渡の戦いに勝利したその後も袁家討伐戦で度々手柄を挙げていき背が小さいことを全く気にせず功績を重ねていくのでした。
こうして楽進はガツガツと功績を挙げて曹操配下の中でも歴戦の将軍として成長していくのでした。楽進の活躍を見ていると背が小さいからって言って、全く不利じゃないことが分かると思います。楽進の活躍は上記で終わったじゃんと思っているはじさん読者のみなさん。彼の活躍はこれで終わりではありません。
合肥の戦いでもしっかりと活躍
その後楽進は荊州方面に駐屯していた劉備軍の武将・関羽を軽々と打ち破った後、曹操の命令により孫権討伐戦に参加。この戦いは激戦になることはありませんでした。曹操は孫権討伐から退く前に楽進へ合肥方面の守りに着くように命令。
合肥城には楽進と仲の悪い、張遼、李典の二将軍と一緒になります。その後孫権が大軍を率いて合肥城へ攻撃を仕掛けてくると張遼と李典の二将軍が孫権軍へ奇襲攻撃を仕掛け、楽進が合肥城を守ることになります。楽進は張遼達が出撃後、しっかりと守りを固めて孫権軍の攻撃を全く許しませんでした。
こうして合肥城は楽進、張遼、李典の三将軍の活躍により、孫権から守りぬくことに成功。そして楽進は曹操からの手柄を褒められて、右将軍の位を与えるのでした。さてみなさん。ここまで楽進の事を様々書いてきましたが、チビであったことが全く不利ではないことがお分かりになったと思います。現在背が小さいから悩んでいる人はこの楽進の記事を読んで、セガ小さくてチビでも大きく活躍することができるんだと自信を持ってくださいね。
三国志ライター黒田レンの独り言
さて三国志には楽進の他にもチビな人物が登場します。例えば曹操です。曹操の身長は約160センチ程と言われ、三国志の時代に登場する英雄豪傑の中では身長の低い部類に入り、チビと言える人物でしょう。
そんなチビな曹操ですが、三国志の時代においても屈指の天才と言われ戦に出れば連戦連勝。曹操に政治を行わせれば既成概念を打ち破って、画期的な政策を次々に行っていきます。また日本の偉人にも背が小さくても歴史に名前を残した人物はいっぱいいます。
その中の一例としては徳川家康です。彼の身長は曹操と同じような身長だったそうで、チビと言える人物でしょう。ですが徳川家康もチビでありながら最後は幕府を創設するほどの大偉業を成し遂げることに成功しています。ここでは曹操と家康を例に出しましたが、背が小さいからといって不利なんて事は一切ありません。背なんて気にしないで大きな活躍をしてみればいいのではないのでしょうか。
参考 正史三国志魏書など
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