三国志に慣れ親しんでいらっしゃる方々ならば、合肥の戦いはもちろんご存知のことでしょう。この合肥の戦い、魏軍で最も華々しく活躍した武将と言えばやはり張遼。その動きは武の頂きに到達したかの如く、呉軍を縦横無尽に駆け抜け続ける姿は戦神の如くです。
しかしその一方で、戦場にこそ出なかったものの、城に残った武将……今回は楽進に注目して頂きましょう。彼がどうして城に残されたか、それもまた、魏の優秀な人間を適材適所で用いていた、という証明となるのです。
この記事の目次
合肥の戦い……始める前に、気になることが……!
ちょっと注釈なのですが、合肥での戦いは何度も行われており、第一次から第五次となる合肥戦線が開かれております。今回はその中でも一般的に合肥の戦い、とよばれる、第二次合肥の戦いについて述べていきます。
この第二次合肥の戦いは214年、孫権が自ら兵を率い、それも10万という大軍を率いての北上、向かうは合肥城。
対する魏はこの合肥城に張遼、楽進、李典という武将たち……後年からするとそうそうたる面子ですが、兵数は僅か7000ばかりであり、更に大きな問題がありました。
曹操は何考えて人材を配置しているんだ!?
この三人、とても仲が悪かったのです。常から楽進と張遼は不仲であり、また李典と張遼については、嘗て李典の伯父が呂布の配下に殺されてしまったことから、呂布軍の降将である張遼とは確執があったと言われています。
所で人材を使う上でこういった交友関係を把握しておくのは重要であると思うのですが、曹操は何を考えてこの三人を顔つき合わせて合肥に置いておいたのでしょうか……今更ですが非常に気になってきましたね。
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曹操「ちゃんと対策しています」
ここでもう一人、曹操によって護軍として置かれていた武将、薛悌が動きます。曹操は薛悌に命令書を入れた箱を持たせていました。
箱を開けるとそこには「敵が来た時は張遼と李典は出陣し、楽進は敵と戦わず薛悌を守るように」と指示が入っていたのです。流石は魏王、ちゃんと指示を用意していました!しかし問題点はそもそも三人が不仲であるということなのですが……?
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郭図さんたちは見習うべき(※既に袁家は滅んでます)
張遼は「敵の包囲網が完成する前に迎撃するべきである。この城を守れるかどうかはこの一戦にかかっている」と主張、李典もまた「国家の大事に個人的な恨みを省みるべきではない」と言いました。
楽進もこれには同意見であったのでしょう、三人はこの危機に常の不満や恨みつらみは忘れ、手を取り合うことになったのです。これができたからこそ、後にこの合肥の戦いが語り継がれることになるのと思うと、実に熱いシーンではないでしょうか。
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楽進はどうして合肥城に残されたのか?
そしてここで気になるのが合肥城に残された武将、今回は楽進です。楽進と言えば魏の猛将のとして名高い武将。呂布や張超、袁術軍相手にいずれも一番乗りとしての戦功を立て、更に幾度も別働隊を率いて勇猛果敢に戦い、曹操に仕えて長く武功を立てた人物です。
しかし、そんな楽進が合肥城では城を出ず、守るように、というのが曹操の指令。どうして曹操は楽進を守りに当たらせたのでしょうか?
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楽進、なんとあの関羽を退ける実績持ち!
合肥の戦いは215年に起こりましたが、それより少し前の208年。曹操は劉表征伐を行いました。これには楽進も従軍し、劉表とは(当然ながら)特に争うことはなく荊州は平定。曹操はこの時、州治の襄陽に楽進を駐屯させました。そしてその折に、楽進は関羽らを敗走させたという記録があります。
これは文聘伝にも乗っているのえすが、これを見てみると楽進には守将としての実績も積んでいた、と言えるのではないでしょうか。曹操はこれを鑑みて、楽進を守りとして用いたのではないかと思います。そうなると合肥の戦い、曹操の適材適所の用兵が嚙み合った勝利、となるのですね。
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楽進、実はこの頃から……
因みにこれよりさらに昔、荊州の劉表への備えとして楽進が派遣されたこともあります。しかしこの時も楽進は于禁、張遼といがみ合うことがあったとか……これも踏まえて想像すると、楽進は古参であるが故に相応にプライドも高く、他の武将とややぶつかり合う気性だったようですね。
それ故に別働隊を率いさせることが多く、一番乗りも多かった。だけど敢えてそこで更に防衛の要として用いた……というのは、曹操が楽進の才覚をより深く掴んでいたからではないでしょうか。更に同時に仲裁役もしっかり置いておく。うーん、振り返れば振り返るほどに合肥の戦い、孫呉に勝ち目は薄かったんだなぁ。
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三国志ライター センのひとりごと
楽進ですが、陳寿先生曰く楽進の記録には漏れがあるそうで。もちろん陳寿先生が下調べに手を抜いちゃったとかそういう話ではなく、楽進は張遼や徐晃のように高く評価されているのに詳細な記録がないのは、漏れがあるのではないか、ということです。一番乗りしてしまうと、それを正確に記録してしまうのは難しいですからね。
それを考えると曹操が楽進を敢えて守勢にしたのは、良いタイミングだったのかもしれない?そんなことを考えてみた、筆者でした。ちゃぽーん。
参考:魏書武帝紀 楽進伝 文聘伝
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