魏の五将軍で戦上手の楽進はどのような最後を迎えたのか!?


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楽進""

 

魏の五将軍として張遼(ちょうりょう)徐晃(じょこう)らと肩を並べた楽進(がくしん)

楽進は常に激戦地区に身を置いて功績を挙げ、呂布(りょふ)討伐戦では一番に突撃して敵陣を陥落させて手柄を立てています。

また合肥の戦いでは超絶に仲の悪い李典や張遼と一緒に協力して孫権軍をフルボッコにして追い返すことに成功。

このように楽進は戦上手と呼べる実力を示し、魏の将軍の中でも最高位のくらいにつくことになります。

そんな楽進ですがどのような最後を迎えたのか。

気になる方もいると思います。

そこで今回は楽進の戦上手を紹介しながら、彼の最後へスポットライトを当ててご紹介したいと思います。

 

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関連記事:楽進(がくしん)ってどんな人?演義では地味だが正史では大活躍しちゃうよ?

関連記事:【俺たちだって五虎将だ!】魏の五虎将たち~楽進・于禁篇~

 


戦上手・楽進!!

戦上手・楽進

 

魏の五将軍として幾多(いくた)の戦いに参加して功績を挙げ続けてきた楽進。

楽進は張遼や徐晃、張郃(ちょうこう)などの名将達を追い抜いて、魏の最高位の将軍へ就任することになります。

彼が魏の最高位の将軍へ就くことになった理由は色々とありますが、

主な理由としては戦場に出れば必ず功績を挙げた所にあります。

楽進は曹操の配下に加わってから、戦場に身を置いて呂布討伐戦、徐州で反乱を起こした劉備(りゅうび)討伐戦、官渡(かんと)の戦いなどで手柄を挙げていきます。

更に荊州を守っていた関羽(かんう)を打ち破り、彼の戦上手が魏の将軍達へ知れ渡っていきます。

こうして楽進は魏の将軍連中や曹操からその実力をしっかりと認めてもらいます。

そんな楽進ですが彼の生涯における最大の戦を経験することになります。

それは合肥(がっぴ)の戦いです。

 


突撃だけじゃない楽進の守り!!

突撃だけじゃない楽進の守り!!

 

楽進は合肥城を超絶仲の悪い張遼・李典(りてん)の三人と一緒に守備することになります。

楽進・張遼・李典の三人は仲が悪かったので、城内は毎日ピリピリとした状態だったそうです。

そんな合肥城へ孫権(そんけん)軍の大軍が襲来してきます。

合肥城を守っていた三人の前へ護軍、薛悌(せつていが曹操から預かっていた書状を披露。

そこには曹操から「張遼と李典は合肥城から打って出よ。護軍と楽進は合肥城を守るように」との命令書が書いてありました。

楽進は張遼・李典と仲が悪くこのまま曹操の命令を守ることを釈然としませんでした。

しかし楽進は日頃仲の悪かった李典から説得を受け、日頃の仲の悪さを押え、合肥城の守備を務めることを承諾し、張遼・李典の二人に協力することにします。

こうして張遼と李典は孫権軍へ奇襲攻撃を。

楽進は孫権軍の攻撃から合肥城を守ることになります。

こうして三人の将軍が協力して役割分担ことによって、張遼率いる奇襲攻撃部隊は孫権軍に大損害を与えることに成功。

そして楽進は張遼達の孫権軍への奇襲攻撃後、合肥城は孫権軍からの攻撃を受けることになります。

しかし楽進は合肥城をしっかりと守り孫権軍を追い返すことに成功。

楽進の守りと張遼・李典の攻撃によって合肥城は守られるのでした。

 

【はじめての三国志平話】
三国志平話

 

魏の最高位の将軍へ

 

楽進は合肥の戦い後、曹操から今までの功績を認められて、魏の最高位である右将軍を拝命することになります。

当時古株の夏侯惇(かこうとん)はまだ前将軍の位にすらついてなく、他の将軍は楽進よりも下の位に甘んじていました。

それを考えると右将軍となった楽進は魏の最高位と言える将軍にまで出世したことになります。


 

魏の最高位の将軍・楽進でも病には勝てなかった

魏の最高位の将軍・楽進でも病には勝てなかった

 

魏の最高位の将軍の位を手に入れ、戦上手であった楽進。

彼はどのような最後を迎えることになったのでしょうか。

楽進は右将軍の位を手に入れた後、三年後に亡くなってしまいます。

しかし、右将軍の位を手に入れてから三年間の記載が楽進にありません。

レンの推測ですが、合肥の戦いが終わってから、一年~二年の間に病にかかってしまったのではないのでしょうか。

そして病にかかった三年目に病に勝てずに亡くなったと思われます。

正史三国志にはどのように楽進が亡くなったのか記載していませんが、孫呉もしくは蜀の将軍に討ち取られたとの記載が無い事から、レンが病にかかって楽進が亡くなってしまったと予測させていただきました。


  

 

 

三国志ライター黒田レンの独り言

三国志ライター黒田レンの独り言

 

正史三国志では楽進の最期がどのようであったのか記載がありませんが、三国志演義には楽進の最後が記載されています。

楽進は濡須江(じゅすこう)の戦いに参加し、孫呉の将・凌統(りょうとう)と一騎打ちを繰り広げたそうです。

楽進は凌統を討ち取る寸前まで追い詰めることに成功し、後一歩の所で邪魔が入ってしまいます。

楽進と凌統との一騎打ちを邪魔したのは、孫呉の名将・甘寧(かんねい)です。

甘寧は凌統がやられそうになると楽進の顔面を狙って弓矢を放ちます。

楽進は甘寧の弓矢を交わすことができずに頭部に矢傷を負い、その後物語登場しなくなってしまいます。

このことから楽進は甘寧の弓矢を受けたときの傷が元で亡くなったと考えられるのではないのでしょうか。

正史三国志の楽進の最後よりも三国志演義の楽進の最後の方が戦場に生きてきた戦人としての楽進の最後にふさわしいような気がするのですが、みなさんはどちらの楽進の死に際がかっこいいですか。

 

参考文献 正史三国志魏書等

 

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