三国時代、中国大陸を3つに分かった国は、言わずと知れた魏・蜀・呉の3国です。しかし、皆さんはこれらの国の正式な国号についてご存知ですか?
まず魏ですが、曹丕が皇帝となった際、彼は父から受け継いだ魏王という称号から国号を「魏」と定めました。その後、一般的に彼が建てた王朝は戦国時代の魏などと区別するために「曹魏」と呼ばれるようになりました。
孫権はその祖先がかの有名な兵法家・孫武であり、孫武は春秋時代に呉で軍師として活躍した人物であることから国号を「呉」と定めます。彼の国はその後やはり春秋時代の呉と区別するために「孫呉」と呼ばれるようになりました。
最後に蜀ですが、実はその国号は「漢」。劉備は漢王朝再興を目指していたわけですから、あえて新しい国号を定めることをしなかったのです。しかし、それではやはりちょっとややこしいということで、後の人が前漢王朝や後漢王朝と区別するために春秋時代にその地に蜀という国があったことに因んで「蜀漢」や「蜀」と呼ばれるようになりました。このように、春秋戦国時代に因んだ国号を定めたり、後から呼ばれたりしている三国ですが、実は魏は他の国号になる可能性もあったのだとか…?
でっかい魏には主要都市がたくさん!
魏は三国の中でも随一の国力を誇る国でした。前漢王朝が都としていた長安や後漢王朝が都としていた洛陽といった巨大都市を2つともその領内に抱き込んでいるのですから、当然人口も多く物資も豊かだったのです。
しかし、他にも大きな都市はたくさんありました。その昔袁紹が軍事拠点としていた鄴、曹操が献帝を住まわせた許、曹家が代々栄えてきた地であり、曹操が生まれた地でもある譙です。これらの3つの都市は、魏の領内でも特に栄えていた都として有名です。そして、これらの3つの都市と先に挙げた長安や洛陽の2つの都市は、総称して「魏の五都」と呼ばれています。
都が「許」じゃないのは何故!?
曹操は献帝を半ば強引に許まで連行し、許を都にしたということはよく聞く話ですが、実は許が都になったことは歴史上一度もないのだとか。曹操は献帝を自分の影響下にある許に一時的に住まわせていただけで、許を都として整備することはありませんでしたし、そこに本拠地を構えることもなかったというのです。
では、その頃曹操自身はどこに本拠地を置いていたのかというと、かつて袁紹がブイブイ言わせていた鄴。しかし、鄴は当時それほど大きな都市ではありませんでした。それなのに曹操が鄴を本拠地としたのはなぜかというと、袁紹勢力を支持する勢力が意外にもたくさん残っており、そういった輩に睨みをきかせるためだといわれています。そうは言っても曹操は、ここに豪華絢爛な銅雀台を築いて優雅に詩を詠んだり女をはべらせたりしていたわけですから、けっこう鄴の地を気に入っていたのでしょうね。
激動の時代を生きた先人たちから学ぶ『ビジネス三国志』
もしかしたら「魏」ではなく…
曹操は鄴を本拠地としていたことから、魏王の位につきます。曹操が魏王となったのは、戦国時代に鄴の地が魏に属していたため、鄴は魏国の領土というイメージが根付いていたからです。しかしこの鄴の地はそもそも春秋時代に斉国がつくった都市であり、戦国時代の終わりごろには魏は趙に鄴を差し出しちゃっています。
そんなわけで、その当時の人々のイメージや捉え方次第では、曹操が斉王や趙王となっていた可能性も無くはなく、国号が斉や趙になっていた可能性も考えられるのではないでしょうか。また、そもそも鄴に袁紹を根強く支持する勢力が残っていなければ曹操が鄴に本拠地を構えることも無く、出生地である譙や元の都である洛陽や長安に本拠地を置いた可能性も考えられるでしょう。曹操が鄴以外に本拠地を構えていたら、国号はまた別のものになっていたかもしれませんね。
三国志ライターchopsticksの独り言
曹丕は皇帝の位を譲られて国号を魏に定めた後、ほどなくして洛陽に遷都しています。結局魏とあまり関係のない地に魏王朝を置くことになったわけです。かといって曹丕は国号を変更することはなく、むしろ火徳を掲げる漢王朝によって雒陽となっていた地名を従来の洛陽に戻したようです。まぁ国号をコロコロ変えられては皆迷惑ですし、魏王・曹操のメンツを立てるという点でも、国号は魏のままにしといて良かったと思います。
関連記事:夏侯淵が滅ぼした宋建は韓遂を上回る長生き群雄だった
関連記事:魏の五都の人口は?魏は斉になっていた?斉・呉・蜀の三国志