【三国志とお金】公共事業にたかる豪族勢力


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四頭立ての馬車 文明開化

 

現代にも公共交通に集る道路族や、防衛利権に(たか)る防衛族と呼ばれるような族議員と呼ばれる代議士の存在がクローズアップされます。しかし、このような存在は、何も現代日本ばかりでなく三国志の時代にも存在したようなのです。今回の「三国志とお金」では公共工事に集る豪族達について紹介しましょう。

 

 

巴蜀豪族の生命線

逃げまとう劉邦

 

三国志を著わした陳寿の出身地でもある巴蜀の豪族は、隔絶した秦嶺山脈の内側の巴蜀にいましたが、褒斜道ほうしゃどう)というメインの桟道(さんどう)子午道(しごせん)というサブの桟道で関中と繋がっていました。

 

祁山、街亭

 

関中は楚漢戦争(そかんせんそう)項羽(こうう)により押し込められた漢中王、劉邦(りゅうほう)が巴蜀を抜け出して関中を制覇し項羽と戦う根拠地にした穀倉地帯でした。ここは益州の豪族に取っても帝都長安に繋がる軍事、経済、政治の重要なパイプでしたが山の中腹を削り桟道を通しただけなのでメンテナスを欠かすと、直ぐに使用不能になる上、涼州から侵攻してくる羌族(きょうぞく)の兵乱により焼かれる事がありました。

 

反乱を起こす羌族

 

この為、巴蜀の豪族は中央政府に庇護してもらう必要があり、多くの豪族が長安に出て中央政府の高官とコネを造ったのです。永初年間(108年~113年)、メインの桟道となる褒斜道が羌族の侵攻で焼かれます。これは、益州豪族にとっては大打撃でした、サブの子午道はありますが、そこは非常に危険であり、一刻も早く修復が必要でした。

羌族

 

ところが、巴蜀の豪族と結びつきが強かった外戚、鄧隲(とうしつ)安帝(あんてい)の皇后閻氏(えんし)の手により失脚、鄧隲に近かった巴蜀出身の官僚も、追放の憂き目にあいます。自分達が支持した有力者が失脚した事で、中央の援助が受けられなくなり、自身の財力ではとても褒斜道を修復できない巴蜀豪族はこの時、事態を打開する為に思い切った行動を取りました。


 

順帝を即位させ、褒斜道の修理を実現させる

順帝を即位させ、褒斜道の修理を実現させる

 

当時の後漢王朝は、安帝が崩御して、鄧皇太后も死去し、安帝の皇后の閻氏が外戚として権力を握りました。閻氏は、安帝の皇太子の劉保(りゅうほ)を廃太子に持ち込んで、自分達に都合のよい皇太子を立てようとします。一度は斉陰王(さいいんおう)に落とされた留保でしたが、ここで、宦官の孫程(そんてい)が中心となり劉保を擁護してクーデターを起こし成功しました。

 

劉保は即位して順帝となりますが、この時クーデターに参加した官僚には張晧(ちょうこう)李尤(りゆう)龔調(きょうちょう)李部(りぶ)という巴蜀出身者がいます。順帝は、その功績に報いるように、即位後、僅か18日で褒斜道を修理するように詔を出したのです。これは、巴蜀の権益を守る為に、巴蜀の豪族階級が中央のクーデターに加担した事を記録したケースとなります。

 

激動の時代を生きた先人たちから学ぶ『ビジネス三国志

ビジネス三国志  

本籍回避を利用して太守を操る地元豪族

本籍回避を利用して太守を操る地元豪族

 

漢の時代、郡守や郡丞(ぐんじょう)、県令、県丞というような地方官のポストは、本籍回避(ほんせきかいひ)という制度が取られ任命されていました。これは、赴任する土地と同郷の人物は太守や県令に任命しない制度で、元々は地元との癒着(ゆちゃく)を阻止する為の制度でした。しかし、県令にしろ太守にしろ、数年しか赴任しないで次々とポストを変わります。元々、他所の土地で思い入れがない上に任期は数年ですから、地域の事を把握する前に転任してしまうのが普通でした。

 

逆に漢王朝は、中央のキャリアにはなれない地方公務員は地元から採用します。彼らは掾史(えんし)と呼ばれ、生涯異動しない地方行政のプロフェッショナルでした。現地を知らない太守や県令が、掾史に仕事を丸投げするのは自然だったのです。そして、前述した張晧、李尤、龔調、李部というような益州豪族は、元々、功曹(こうそう)掾のような地方公務員でした。かくして掾史は太守や県令に対して強い影響力を持つようになるのです。


 

公共工事を誘致し勢力を拡大する豪族

公共工事を誘致し勢力を拡大する豪族

 

巴蜀に限らず、灌漑設備(かんがいせつび)を整備したり、道路を開通させる事は豪族に取って、貴重な勢力拡大のチャンスでした。豪族は、労働力としての奴隷を多数抱えていて、彼らを業務として行商させ、200キロ圏内を移動させていました。ですので、自分達の支配地域が開けてくるのは非常に重要で、太守や県令と結託し漢王朝から大土木工事の(みことのり)を出させ公共工事を起こさせそれによって開けた土地に逸早くツバをつけて囲い込むのです。

 

例えば、巴蜀のある豪族は、広漢太守陳寵(ちんちょう)が西州を開拓した時に多数の吏員を送り込んで開拓地を囲い込んでしまい、その事で日に百件の訴訟が出たとされています。このような事は巴蜀ばかりではなく、他の豪族の土地でも起こっていて、後漢の明帝永平十三年(西暦70年)に、卞渠(べんきょ)周辺地区の灌漑が容易な土地を豪族が独占する事を禁止する法令が出ていました。このパターンは21世紀の日本の族議員とあまり変わりませんが、それでも豪族の力なしに地方統治は難しく、劇的な癒着の改善は見込めなかったのです。


  

 

三国志ライターkawausoの独り言

三国志ライターkawausoの独り言

 

このように後漢の豪族は、本籍回避のキャリアの長官達に対して、勝手が違う土地の支配において力を貸すと同時に、土地の開発においては漢帝国の援助を引き出し開かれた土地や用水路などをいち早く囲い込んで私腹を肥やす事もしていました。こうして、勢力を増した豪族の中から、群雄割拠の時代には自ら群雄になったり或いは曹操(そうそう)劉備(りゅうび)のような豪族に加担していく人々が出現し、時代は群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)の三国時代へと流れていくのです。

 

参考文献:巴蜀の豪族と國家權力 : 陳壽とその祖先たちを中心に 上田早苗

 

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