徳川家康の祖父は小覇王、松平清康とはどんな人?

2018年12月16日


 

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戦国時代の合戦シーン(兵士モブ用)

 

徳川家康(とくがわいえやす)の幼少期の話は山岡荘八(やまおかそうはち)の小説等でよく知られている事だと思います。三河の松平氏は当主の松平広忠(まつだいらひろただ)があまりぱっとせず、ほぼ今川義元(いまがわよしもと)に従属して苦しんでいました。ところが三河松平氏は、昔からそうだったわけではなく家康が生まれる少し前まで、いけいけどんどんであり、三河を統一した強豪の戦国大名だったのです。この三河を統一した小覇(しょうはおう)と呼べる人物こそ家康の祖父、松平清康(まつだいらきよやす)でした。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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松平信忠の嫡男として生まれる

 

松平清康は永正8年(1511年)安祥松平家(あんじょうまつだいらし)の第六代当主、松平信忠(まつだいらのぶただ)嫡男(ちゃくなん)として生まれました。この1511年、お隣の尾張でも戦国大名、織田信秀(おだのぶひで)が生まれています。大永3年(1523年)に隠居の祖父、松平長親(まつだいらながちか)や一門衆は、ぱっとしない父、松平信忠を強制隠居させ、12歳の清康に家督を継がせました。後見には、松平長親や松平一門衆が立ちましたが、その当時から相当な器量の持ち主と考えられていたのかも知れません。

 

 

 

松平清康能力高すぎ!

 

軍議(日本史)モブa

 

大永5年(1525年)14歳の清康は、足助城の鈴木重政(すずきしげまさ)を攻めてこれを降伏させます。さらに大永6年(1526年)岡崎松平氏の山中城を攻撃し、西郷信貞(さいごうのぶさだ)(松平昌安)を屈伏させ清康は信貞の居城の旧岡崎城を破棄し、現在の龍頭山に新岡崎城を移転し松平氏の拠点にしました。

 

清康は、城の下に城下町を整備、岡崎五人衆、代官、小代官体制を敷き、松平氏菩提寺の大樹寺(たいじゅじ)の勅願時化や修築、多宝塔の新築など、領内に寺院を多く創建しました。こうしてみると、清康は戦争が強いばかりではなく、城下町を造って行政を整備し、寺院を創建する事で、領内の安定を図ったようです。注目すべきは、この頃、清康は10代という事で、いかに後見として祖父の松平長親がいるとはいえ清康自身の手腕もかなりあったのでしょう。

 

織田信長スペシャル

 

 

松平清康三河を統一する

三河国勢力図

 

享禄(きょうろく)2年(1529年)清康は尾島城(おしまじょう)(小島城:西尾市所在)を攻め獲ります。その一方で、同年には東三河にも進出、三河牧野氏の今橋城(後の吉田城)を攻め落としさらに吉田城の南方の渥美郡田原(あつみぐんたはら)に進軍し、戸田氏は清康の勢いに戦わずして降伏、そこで、清康は吉田城に兵を戻して10日間在城しました。

 

この清康の勢いに、北方の設楽郡(したらぐん)の山家三方衆の田峯城(たみねじょう)菅沼氏、長篠城(ながしのじょう)菅沼氏と亀山城奥平(おくだいら)氏、宝飯郡(ほいぐん)牛久保の牧野氏など東三河国人衆の多くが従属を申し出ました。松平清康はこれを許して従わせ、唯一従わない三河の東端八名郡にあった宇利城(うりじょう)熊谷氏(くまがいし)を包囲して攻め落とし18歳という若さで三河を統一してしまったのです。

 

 

尾張を併合しようとし突然の死

 

享禄3年(1530年)清康は尾張国へ再出発、岩崎城を攻め落とし岩崎郷を品野城を落とし品野郷を奪いました。無敵の清康は美濃の斎藤道三(さいとうどうさん)と連絡を取り、1万余りの大軍で尾張へ進軍、天文4年(1535年)清康は尾張に侵入し、織田信秀の弟の織田信光(おだのぶみつ)の守る森山城を攻めます。

 

織田信秀最大のピンチでしたが、この戦いの途中1535年12月29日清康は大手門付近で突如、家臣の阿部正豊(あべまさとよ)に斬られて即死しました。松平清康この時まだ25歳の若さでした、この事件を森山崩(もりやまくず)れと言います。

 

 

松平信定はどうして清康を殺した?

キングダムと三国志 信と曹操のはてな(疑問)

 

松平清康を狙った真犯人は、清康の叔父にあたる松平信定(まつだいらのぶさだ)だと言われています。松平信定は、松平長親の三男で長親にも寵愛されたそうですが、叔父の松平親房(まつだいらちかふさ)の養子に出され家督を継ぐチャンスを失い、三河国碧海郡(へきかいぐん)桜井(さくらい)に桜井城を築きました。

 

しかし、当人は家督相続を諦めておらず、兄の信忠の代から松平氏当主の座を狙い続け、清康の時代になってもあえて敵対していた織田家と結ぶなど不穏な動きを見せています。そして、清康が三河統一の最終段階で熊谷氏の宇利城を攻めている時、城の大手門を攻めている福釜松平氏(ふくがままつだいらし)松平親盛(まつだいらちかもり)の支援が遅れて戦死させてしまいました。これに対し松平清康は激怒し信定を散々に叱り飛ばしたと言います。松平信定は甥の清康に散々に罵倒され恥をかかされた事で殺意が芽生え、阿部正豊を(そその)して、殺害に及んだという事です。

 

戦国時代ライター編集長の独り言

戦国時代ライター編集長の独り言

 

当主、松平清康を失った松平氏は凋落(ちょうらく)の一途を辿ります。織田信秀は、このチャンスを逃さずに反撃に出て三河安祥城を奪い取りました。一方で混乱する家中では例の松平信定が策謀を発動して、後継ぎの松平広忠を岡崎城から追い出し自分が当主となります。

 

追い出された松平広忠は、今川義元の支援を受けて岡崎城を奪い返しますがそれが終生の今川氏への借りになり、三河松平氏は次第に今川氏に取り込まれて、下請け同然の存在に落ちぶれてしまうのです。

 

松平清康は、若いながら慈悲深い性格で誰にも分け隔てなく接したとされ部下にも領民にも慕われていたそうです。決して、喧嘩が強いだけの大将ではなかったのですね。愛知県の安城市には松平清康像があり、地元では猛プッシュしているとか、もし彼が暗殺されなかったらずんずん近畿の戦国大名を倒していき、織田信長の出番はなかったかも知れません。

 

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麒麟がくる

 

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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