卑弥呼降臨 倭国大乱を制す【後編】

2018年12月24日


 

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コーノヒロ

 

こんにちは。コーノヒロです。

今回からは、邪馬台国(やまたいこく)女王の卑弥呼(ひみこ)の降臨し、出雲王国(いづもおうこく)滅亡から「倭国大乱(第一次)」平定へと導いた話の後編の話をしていきたいと思います。

よろしくお付き合いください。

前回では、朝鮮半島の「三韓(さんかん)」の王族として、倭国(わこく)に派遣され、最終的には倭国を吸収合併することを目的としていたスサノオでしたが、

出雲王国を立ち上げ、そのまま、「三韓」の対抗勢力として、倭国に居付いてしまったという話でした。

つまり、古巣の「三韓」に反旗を翻した形となっていました。

王族同士の足並みの乱れが見えてきた気がしますね。

詳しく見ていきましょう。

 

日本古代史を分かりやすく解説「邪馬台国入門

 

関連記事:古代出雲王国の躍進、元祖「国盗り物語」?荒ぶる神スサノオ2

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辰王・イザナギと出雲王・スサノオの対立か!

イザナギ

イザナギ

 

そこに見られるのは、スサノオの父であるイザナギとの確執かもしれないですね。

ということは、日本神話の記紀(古事記・日本書紀)に登場するイザナギは「三韓」の王であったと考えられるでしょうか。

(つまりは、イザナギは、「馬韓」の=辰王であったということでしょう。「辰王」については、先回の記事を参考にしてほしいです。

参考記事『古代出雲王国の繁栄は黄巾の乱と関係があった! 』)

 

「三韓」のイザナギ王は、当時、北方の楽浪郡や高句麗などの北東部と緊張状態や戦争状態にありました。

南方の倭国へ力を入れる余裕がなくなっていたことでしょう。

本来なら、あっさり味方になるはずの、スサノオの出雲王国が、そっぽを向いてしまったのです。

まさにスサノオの裏切りと言える状況にイザナギ王は、苛立ちを隠せなかったでしょう。

ここで、「三韓」VS「出雲王国」との完全な対立の構図が出来上がったのです。

 

その状態は、スサノオの次代のオオクニヌシの代まで続きますが、十数年かで終わりを告げるのです。

190年代に入る前頃でしょうか、年老いたイザナギ王は、北方方面との緊張状態が続き、焦りもあったのか、

スサノオの姉(か双子か、あるいは妹の説もあり)のアマテラス(天照大神。以下、アマテラス)を南方の倭国へ差し向け、

強制的に併合しようと動き出しました。

それが、記紀の中の「天孫降臨」の話につながる訳です。

アマテラスが倭国内の邪馬台国の女王・卑弥呼として降臨したのです。

つまり、「三韓」勢力が分国の北九州地域を拠点にして、邪馬台国を成立させ、出雲王国を飲み込み、倭国を平定したのです。

 

 

 

邪馬台国は韓の国?!

邪馬台国は韓の国

 

ということは、邪馬台国そのものが「三韓」の分国として、成立したと言えるでしょうか。

というのも、邪馬台国の「馬」とは、「馬韓(ばかん)」に関係があるとも思えてきます。

さらに、『三国志正史・韓伝』には「馬韓」の領国内に 「卑弥国」という地域があったという記述があります。

他にも、卑弥呼の操る「鬼道」と言われるシャーマニズムの原型は、朝鮮半島南部によく見られた文化の形跡があると伝わっています。

 

これは、以前取り上げた、作家の松本清張(まつもとせいちょう)の著作の『古代史疑』などで指摘されているとお話しました。

それは、やはり、北九州地域が、当時(2世紀後半〜3世紀半ばにかけて)、「三韓」の領域になっていた根拠の一つと言えるでしょうか。

そして、邪馬台国VS出雲王国へという流れになるのでしょうが、これは、倭国大乱(第一次)の一環で、つまり、「天孫降臨」とは、

倭国大乱(第一次)の終結を描いた話とも言えそうです。

結果、「三韓」の勢力を後ろ盾にした、邪馬台国の側に分があり、出雲王国は制圧されたということになるでしょうか。

 

 

 

曹操の影

曹操の影

 

つまり、この時期、190年前後からは、「三韓」が邪馬台国を介してですが、倭国の大半を制圧したという見方ができるでしょう。

しかし、それも長くは続きませんでした。

それは、遼東半島を根拠地とする、後漢王朝から半独立した「公孫氏」の勢力が、南方へと侵攻を開始したからです。

例えば、『三国志 韓伝』には、以下のような記述があります。

 

要約ではこうです。

建安年間(196年~220年)に、公孫氏の公孫康が、朝鮮半島北部の楽浪郡の南に「帯方郡」という属国を成立させました。

これが強盛に出て、「三韓」は防戦となり、ついには、服属という形になったというのです。

 

つまり、「三韓」は、公孫氏の「帯方郡」の支配下に入ったということです。

この事実は、建安年間(196年~220年)か直後あたりの時期とされているようです。

建安年間(196年~220年)とは、中国大陸では、曹操(そうそう)が勢力を延ばし、後漢王朝の皇帝の献帝(けんてい)を凌ぐ権力を得て、

遂には「丞相」の地位に就いた時期でもあります。

又、この時期に、公孫氏の公孫康(こうそんこう)は、曹操を背後にした後漢王朝に服属の意を示したとされています。

ということは、自動的に「三韓」も後漢王朝に従ったのでしょう。

それは、「三韓」の影響力を受けた邪馬台国も、後漢王朝に従ったことを意味するでしょう。

ただし、その年代は、220年前後あたりと考えられます。つまり、曹操の死の前後ということです。

曹操が影響力を持った後漢王朝に服属したかもしれないですが、曹操の死後、魏王朝の成立後に、魏王朝に服属した可能性もあります。

しかし、いずれにしても建安年間(196年~220年)という、曹操が勢力を拡大していた時期に卑弥呼は女王として表舞台に登場していたでしょう。

 

 

古代史ライターコーノ・ヒロの独り言

古代史ライターコーノ・ヒロの独り言

 

曹操と卑弥呼は、同時代の人であることはもちろん、お互いが、存在を知り合っていた可能性がありますね。

と、ここまで話しますと、新たな浮上する一つの疑問点として、次のことがあるでしょうか。

つまり、卑弥呼(アマテラス)が、邪馬台国の女王に即位して、「倭国」を平定したのが、190年前後と考えていますから

(前回の記事『卑弥呼降臨 倭国大乱を制す【前編】』を参照)、卑弥呼の死去が247年あたりという通説と併せて考えますと、

50年以上の長期政権ということになりますね。

それは、その当時にあり得たことだったのでしょうか?

次回は、これについて探るとともに、卑弥呼の倭国平定についての総括を完結編として語っていきたいと思います。

お楽しみに。

 

【参考文献】

 

◆『東アジア民族史1

正史東夷伝 』

井上秀雄 ほか訳注

平凡社

 

◆魏志倭人伝を読む(下) 卑弥呼と倭国内乱

歴史文化ライブラリー 105 佐伯有清 著

[吉川弘文館]

 

◆『魏志倭人伝』 石原道博 編訳 (岩波文庫)

◆『出雲と大和 ― 古代国家の原像をたずねて ―』村井康彦著(岩波新書)

 

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コーノ・ヒロ

コーノ・ヒロ

歴史好きのライターです。 福祉関係の仕事をしつつ、物書きの仕事も色々としています。 小説や詩なども、ときどき書いています。 よろしくお願いします。 好きな歴史人物 墨子、孫子、達磨、千利休、良寛、正岡子規、 モーツァルト、ドストエフスキー など 何か一言 歴史は、不動の物でなく、 時代の潮流に流される物であると思っています。 それと共に、多くの物語が生まれ、楽しませてくれます。

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