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『三国志演義』に登場する周倉は実は実在していた!麦城村に周倉の墓も

2019年3月2日


 

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関羽に見惚れる赤兎馬

 

三国志(さんごくし)』の魅力的なキャラクターといえば武神・関羽(かんう)の名を挙げる人が多いでしょう。

 

周倉

 

そして、そんな関羽の心強いお供といえば元黄巾賊にして元山賊のという異色の経歴を持ちながら関羽に憧れを抱き続けてついに関羽の右腕ともいえる存在にのぼりつめた周倉です。

 

 

三国志平話

 

 

しかし、周倉は『三国志平話(さんごくしへいわ)』や『三国志演義(さんごくしえんぎ)』などの一連の『三国志』をベースとした作品のみに登場する創作オリジナルキャラクターであるとされており、実在はしていなかったというのが有力な説です。

 

反董卓軍マニアック(劉備 雷銅 リョカ サマカ 周倉)

 

ところが、「周倉は実は実在していたのでは…?」と一部の『三国志』ファンの間ではまことしやかに囁かれている様子…!今回は、周倉が実在したという説について徹底的に検証していきたいと思います。

 

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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湖北省当陽県麦城村に周倉の墓が…!

周倉

 

周倉が実在したという証拠として度々挙げられるのが、中国のある場所に存在する周倉の墓の存在です。その周倉の墓は湖北省(こほくしょう)当陽市(とうようし)兩河鎮麦城村にあります。麦城といえば、関羽が荊州(けいしゅう)を奪われて逃げ延びた地。呂蒙(りょもう)の策にはまって樊城(はんじょう)襄陽(じょうよう)も落とせずに逃げた関羽が孫権(そんけん)軍とかち合うことを恐れて引き返し、最期の拠点とした地です。

 

父・関羽とともに亡くなる関平

 

その後、関羽軍は孫権からの降伏勧告を受け入れたふりをして麦城から抜け出すのですが、結局孫権軍に捕まって捕虜となり、斬首に処せられてしまいます。そのとき周倉はまだ麦城で関羽を待っていたのですが、孫権軍から関羽の首を見せられて城壁から飛び降りて自害。麦城は周倉の最期の地となったわけです。そのため、周倉の墓が湖北省当陽市兩河鎮麦城村に建てられたようですが、このお墓は一体いつ建てられたのでしょうか…?

 

 

 

周倉墓の歴史

同年小録(書物・書類)

 

周倉墓の歴史は、清の乾隆帝の時代の農夫がこの地で「周将軍…」と刻まれた石碑を発見したことに遡ることができるようです。ただ、周将軍の名も生没年もいつこの石碑を作ったのかもわからず仕舞いで、とりあえずこの地に関する歴史的な物事を調べた結果、周倉の墓碑ではないかと結論付けられたそうな。歴史的な物事を調べたと言っても、周倉は創作上の人物としてしか登場していません。

 

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清代の人は創作上の人物も実在の人物として取り扱っていたのでしょうか?それともその当時は周倉が実在していたという資料が残っていたのでしょうか?謎は深まるばかりですね。

 

 

関帝廟では関羽像の隣に周倉の像が…!

関帝廟 関羽

 

実は関羽を祀っている関帝廟には周倉も祀られています。この関帝廟は、唐代以降様々な地で建てられるようになったようですが、周倉も関帝廟がつくられた当時から祀られていたのでしょうか?その真相は分かりかねるものの、可能性は無くは無いです。実は周倉は北宋代に徽宗によって威寧将軍に追封されており、まるで実際に存在した英雄のように扱われています。

 

正史三国志_書類

 

周倉が書物の中に登場しはじめたのは元代に刊行された『三国志平話』からであると考えられていますから、書物に登場するよりもずっと前から周倉の存在は広く人々に認識されていたようですね。このことに鑑みれば、周倉という人物が実は存在していたのではないか…?という期待も持てそうですが、唐代といえば講談が始まった頃であり、宋代といえば講談が盛んに行われていた時代。

 

周倉とホウ徳

 

そのため、講談をしていた人が適当に作った周倉というキャラが人々に大ウケしてどんどん広まっていき、架空の人物なのか実在の人物なのかその区別がつかなくなってしまったということも可能性の一つとして考えられそうです。

 

魏のマイナー武将列伝

 

 

実在した周倉の本当の名前は「呂布」!?

赤兎馬と呂布

 

いやいや、周倉は存在していたはずだ!と訴える人の中には、周倉の本名は「呂布」説を打ち立てる人もいるようです。呂布ってあの裏切り者のアイツ!?

 

と思ってしまう人も多いと思いますが、アイツと同姓同名の人物がいて、その人物の名字が呂、名が周倉だったと言うのです。その根拠として挙げられるのが正史『三国志』夏侯惇伝に見える

 

「二十四年、太祖軍撃破呂布軍于摩陂

 

(二十四年、太祖軍呂布軍を摩陂(まは)に撃破す)」の文言です。

 

「二十四年」とは建安二十四年のことであり、西暦で言えば219年です。

 

呂布

 

しかし、呂布は199年に既に死亡していることになっているので、ここに矛盾が生じてしまうことになります。このことから、呂布には同姓同名の人物が存在し、この呂布こそが関羽の部下なのではないか?と推察する人もいるようですが、ちょっと難しいような気もします…。

 

 

三国志ライターchopsticksの独り言

三国志ライター chopsticks

 

結局、周倉は存在していたのかどうかですが私個人としては存在していなかったと考えるのが妥当であると結論付けておきたいと思います。何せ証拠が無さすぎますし、証拠らしきものの多くが怪しすぎます。今後、周倉に関する資料が新しく見つかれば、この結論をひっくり返す日も来るかもしれません。兎にも角にも、未来に期待ですね。

 

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清朝考証学を勉強中。 銭大昕の史学考証が専門。 片田舎で隠者さながらの晴耕雨読の日々を満喫中。 好きな歴史人物: 諸葛亮、陶淵明、銭大昕 何か一言: 皆さんのお役に立てるような情報を発信できればと思っています。 どうぞよろしくお願いいたします。

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