魏の軍師と名高い”司馬懿”。少しでも三国志をかじった読者なら耳にしたことがあるでしょう。
一方の”王異”は趙英の母。
長安に近い冀城で蜀漢の馬超と戦っています。司馬懿ほど知名度はありませんが、王異も戦略に長けた人物でした。
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ひねくれものの司馬懿
司馬懿は曹操を皮切りに曹芳までの四代に渡って曹家に軍師として仕えました。
曹操が亡くなった後も魏の国を支えたわけですから、ある意味では曹操よりも優雅な暮らしを送ったのかもしれません。初め、司馬懿は曹操が家来になるよう言い渡しても応じず、病気を理由に断っていました。
いわゆる仮病です。
漢王朝からの求めに対し、仮病で辞退するのは、よほど勇気があることのように感じます。しかし、戦乱の前漢から三国鼎立の時代において病気を理由にすることは生き延びるための知恵でした。
当時の前漢は傾きかけており、出仕しても”未来”はないと司馬懿は感じとったのです。世が乱れていますから、病気では使い物にならないと思わせるのも手段の一つでした。
王異の生きる知恵
王異は息子を殺した”梁双”に辱めを受けそうになった際、自害を考えました。しかし、幼い娘の趙英の姿を目にすると死ぬことはできませんでした。
そして、ボロに着替え、食事を摂らずにやせ細った姿にわざと変装したのです。
梁双は衣服に糞が塗りたぐられているのを見て、手を止めると王異は考えました。やがて和睦が成り、捕らわれの身であった王異は夫の元へ帰ります。
司馬懿、全権を握る
三国鼎立が安定してくると司馬懿は魏の国を影で支えます。特に曹丕とは相性が良く、統治も順調でした。
曹魏が瓦解を始めたのは曹爽の時代。司馬懿はこの時、”兵権”を持っていました。兵権とは国の軍事を司ることができる強大な権利で大軍を自由に動かすことができます。自衛隊の統合幕僚長に近い存在です。
一方の曹爽は内政を扱うのみ。軍事に口出しはできなかったのです。
ここで勘のいい読者なら察しがつくと思いますが、兵権を握るということはクーデターを可能にすることを意味します。案の定、司馬懿は曹爽が洛陽を留守にしたのを好機と見て、軍事クーデターを起こします。
軍師が行う謀反ですから、政敵を追いやるための証拠をわんさか用意します。そして、自らのクーデターを正当化させるのです。
王異の速戦即決
馬超に冀城を攻められたおり、籠城戦を選んだ王異と夫の趙昂は食糧危機に陥っていました。予想以上に馬超が手強かったのでしょう。
見るに見かねた韋康は和議を提案します。これを夫から打ち明けられた王異。馬超の魏に対する恨みつらみが強いことから降伏に反対します。
仲直りしたと見せかけて、馬超はまっさきに相手を殺すと思ったのです。
そして、韋康は和議を結ぶのですが、まもなく馬超に殺害されてしまいます。
三国時代にスマホがあったら、すんでのところで和議を止められたかもしれません。
それぐらい”情報”というのは戦時において重要なのです。
現代の日本で災害時にデマが飛び交うのと似た状況です。緊急時に冷静な判断ができる人は少ないのです。もし、王異が東京都知事だったら、もっと早くに豊洲へ魚市場を移転していたかもしれません。
前線の王異、指令部の司馬懿
王異が前線での判断に長けた策士なら、司馬懿は指令部での策士です。それは司馬懿がのちに魏の大権を握ったことからも推し量れます。
アメリカ合衆国で例えるなら、”CIA”のようなものです。王異は映画「ミッションインポッシブル」の女性版イーサン・ハントといった位置付けでしょう。
やはり庶民としてワクワクするのは王異です。影で夫を支え、戦に勝利を導く女神こそ真の策士ではないでしょうか。
三国志ライター 上海くじらの独り言
一般市民の目線で今回は王異に軍配が上がりました。
もちろん正解はありません。
すべての読者にオリジナリティ溢れる意見があるはずです。
いずれにしろ両者が手練手管を駆使して三国時代を生き延びたのは事実です。
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