司馬懿(しばい)が諸葛孔明(しょかつこうめい)に対し手紙を送っていたことが、
三国志正史「蜀書」に記されています。
司馬懿は魏の大将軍として、魏の丞相である諸葛孔明の北伐を阻止した英雄と知られています。
司馬懿は諸葛孔明の宿敵なわけです。
そんな二人が文通していたのは本当なのでしょうか?
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手紙で話題にのぼった黄権
ここでポイントになるのが、曹丕(そうひ)・曹叡(そうえい)・
曹芳(そうほう)という魏の三代皇帝に仕え、
車騎将軍・儀同三司まで昇進した黄権(こうけん)という人物です。
面白いのが、黄権については三国志正史「魏書」ではなく、
三国志正史「蜀書」に記されていることです。
もともと蜀の劉備に仕えていた黄権は、関羽(かんう)の仇討ちである夷陵の戦いに臨むのですが、
対魏に備えて配置されました。
しかし劉備(りゅうび)は陸遜(りくそん)に大敗し、進退窮まった黄権は魏に投降します。
曹丕(文帝)は、黄権の人柄を感心し、厚遇して鎮南将軍・育陽侯・侍中に任じています。
貴重な人材であれば、降将であっても重用する辺りは、
父親である曹操(そうそう)に習ったものだったのでしょうか。
黄権の子・黄嵩
魏に降ったことが明るみになると、蜀の官吏たちは、蜀に残った黄権の妻子を逮捕しようとします。
しかし劉備は、自分が黄権を裏切ったのだ、と言って、
黄権の妻子に対し、これまでと同じ待遇をしました。
劉備が妻子を処刑したという偽情報が、魏の黄権の耳に入りますが、
劉備の仁徳を知っている黄権は信じませんでした。
劉備と黄権の間には絶対の信頼関係が存在していたのでしょう。
だからこそ、黄権は蜀書に伝が編纂されているのです。
蜀に残った黄権の子・黄嵩(こうすう)は、父が魏に降った40年後、
鄧艾(とうがい)らが蜀へ侵攻してきた際に諸葛瞻(しょかつせん)(諸葛孔明の子)
と共に戦い抜き、戦死しています。
司馬懿が黄権に接近
もともと魏には他勢力から降った将が多数在籍しています。
武将でいえば張遼(ちょうりょう)や徐晃(じょこう)、張郃(ちょうこう)らがそうですし、
黄権だけが特別視されたということはないでしょう。
この黄権に接近し、親交を持ったのが、司馬懿です。
曹丕が認めたほどの器量の持ち主ですから、
司馬懿から見ても、魅力的な人物に映ったのかもしれません。
当然のように、この接近は、北伐を目指す蜀の諸葛孔明について詳しく知るためだったと考えられます。
司馬懿が黄権を絶賛
司馬懿は諸葛孔明に手紙をしたため、その中で、黄権が快男児であると紹介しています。
自分が黄権と親交のあることを公表したのです。
黄権といえば戦上手であり、さらに史書によっては、
蜀の四名臣として諸葛孔明・龐統(ほうとう)・蒋琬(しょうえん)と並び称されるほどの人物です。
蜀の内情についてもかなり詳しかったと推測されます。
手紙に黄権を登場させることで、司馬懿は暗に、
「蜀の事情は黄権から聞いて知っているぞ」というプレッシャーを諸葛孔明にかけたかったのでしょう。
できればそれを知って、諸葛孔明が北伐を諦めてくれることを希望していたかもしれません。
それに対抗して諸葛孔明も手紙を書いたようですが、内容は謎になっています。
「黄権が、蜀に不利になるようなことを漏らすはずがない」
といったことを伝えるものだったかもしれません。
三国志ライターろひもとの独り言
司馬懿と諸葛孔明の戦いは、戦場だけでなく、情報戦や心理戦も含んでいます。
かたくなに守りに徹する司馬懿に、諸葛孔明は婦人の衣服を送って挑発したとも伝わっています。
司馬懿は諸葛孔明からの使者に、諸葛孔明の仕事ぶりを尋ねて、過労死することを予想しています。
表立っての交流はこんな感じですが、
実はもっと頻繁に文通し、互いの腹を探っていたのかもしれませんね。
そしてそれを読んで、これは敵わぬと、
司馬懿は諸葛孔明をより畏怖するようになったのではないでしょうか。
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