夷陵の戦いに至るまでの経緯は?夷陵の戦いまでの蜀の動きと経緯

2019年4月8日


 

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公孫瓚と劉備

 

どんなものでも、そこに至るまでの経緯があります。それはもちろん、歴史でも同じ。

その経緯を知ることは、よりその事象を深く、詳しく知ることに結びつきます。

 

今回は三国志(さんごくし)夷陵の戦い(いりょうのたたかい)、そこに至るまでの経緯をお話します。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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樊城の戦いから全てが始まる

敗れる関羽雲長

 

夷陵の戦いの前提、というかその発端とも言えるのがその前にあった樊城の戦い(はんじょうのたたかい)

樊城の戦いで関羽(かんう)が敗れたことで(しょく)荊州(けいしゅう)を失います。

 

祁山、街亭

 

山間部にある蜀にとって戦いの足掛かりとして荊州の土地は非常に重要でしたが、それを失ってしまったのです。

 

張飛、劉備、関羽の桃園三兄弟

 

また関羽と言えば劉備の旗揚げ時代からの仲間であり、義兄弟の一人。

この関羽を()、そして()の同盟によって打ち取られたことで劉備は復讐に燃えて戦争を始めた…と多くの場合では夷陵の戦いの発端として書かれています。

 

 

 



関羽の死から暫くして、歴史が動く

関羽

 

関羽の死から1年ほど経って、歴史的大事件が起こります。因みにまだ夷陵の戦いなどは起こっていません。

 

酔いつぶれる劉備玄徳

 

1年経ってもまだ夷陵の戦いが起こっていないと言うのも、一体劉備は何をしていたのか?と言われる理由の一つです。

 

皇帝に就任した曹丕

 

この歴史的大事件というのは皆さんご存知、魏の曹丕()献帝(けんてい)による禅譲(ぜんじょう)です。

220年、曹丕が魏王朝を開きました。

 

献帝

 

献帝が曹丕に帝位を譲ったのです。これはとてつもなく大きな出来事です。

世界史の教科書に載っているレベルの出来事です。

 

しかし大きな出来事なのは、歴史的に見てだけではありません。劉備にとっても、非常に大きな出来事になっているのです。

 

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蜀と劉備は「これ」を認められない…!

二刀流の劉備

 

今までは献帝(けんてい)の下で、魏の曹操(そうそう)、蜀の劉備(りゅうび)、呉の孫権(そんけん)は部下をやっていました。

そこに立場の優劣はあっても、献帝の部下という身分は変わらなかったのです。

 

献帝

 

だから「献帝のために」と言えば何をしても許されました。

 

劉備と曹操

 

これは漢王朝という社会の仕組みが崩壊していたからこそ許されていたことではありますが、あくまで上司である曹操の命令でも、もっと上に献帝がいるからという言い訳で劉備も孫権も無視したりしていました。

 

曹丕

 

しかしその献帝の位置に、皇帝に曹丕はなってしまったのです。これでは今までのようにはいきません。

劉備が良く言う「漢王朝(かんおうちょう)」はその権威を曹丕に譲ってしまったのです。

 

劉備の黒歴史

 

皇帝に逆らうのは反逆者、劉備にとってこれは存在意義を失うだけでなく、天下統一すらできません。

皇帝になってしまった曹丕のいる魏に戦いを仕掛けることも罪になるなら、魏から攻撃された時に抵抗しても反逆罪です。

 

孟達に恋文を送る曹丕

 

しかも曹丕は帝位を奪ったわけではなく、あくまで譲られた訳ですから「無理やり奪われたんだ!」とも本来なら言うことはできません。

 

蜀の皇帝に即位した劉備

 

この時期に何故か蜀では「献帝は実は殺された」という真っ赤なデマが流れて、劉備は献帝の仇を討って漢王朝を復興させるべく漢皇帝を名乗ります。

これで苦しいけれど劉備と曹丕は同格になりました。魏に臣従することはできない劉備としては、こうするしかなかったのでしょう。

 

はじめての漢王朝

 

 

夷陵の戦いが始まるまで

劉備

 

そして「献帝が殺されて曹丕が帝位を奪った」ことにしてまた1年ほど、劉備は宣戦布告します。

 

なぜか呉に。

 

朝まで三国志 劉備

 

そう、これこそが夷陵の戦いです。献帝が殺されたと噂される中、漢王朝の権威を復興しなければという自国内の雰囲気の中、曹丕打つべしの声が上がる中で、劉備は呉との戦いを決定するのです。

 

キレる劉備になだめる黄権

 

この時臣下の中からは「順番が違う」といくつもの声が上がりますが、劉備は強硬。

 

ブチギレる劉備

 

劉備はそもそも漢王朝の復興を目標に皇帝になって、皇帝になってその権限を使って最初にやったのが義兄弟の敵討。当選した政治家がいきなり公約をやぶったら皆から反対されてしかるべきですよね。

 

三国志の主人公の劉備

 

まぁ魏と戦うなら荊州の奪還は必要なので、夷陵の戦いに踏み切るのはそこまでおかしくはありません。それでもどうして劉備はここまで無茶苦茶な筋の通らないことをしたのか?

 

関羽

 

本当に劉備は関羽の敵討で夷陵の戦いに踏み切ったのか?

色々な謎と憶測を呼ぶのが、この夷陵の戦いまでの経緯です。

 

三国志ライター センの独り言

三国志ライター セン

 

夷陵の戦いまでの経緯なのに、戦い以外の記述が多くなってしまいましたね。

 

朝まで三国志201 観客2 モブでブーイング

 

まるで歴史の授業みたいでつまらない、なんて声が上がっちゃうかもしれません。

ですがこの背景こそが夷陵の戦いまでの経緯であり、劉備の謎の行動など、三国志の中でも想像が膨らむポイントでもあります。

 

どうして劉備(りゅうび)はこう動いたのか?

皆さんも夷陵の戦いまでの経緯から、劉備の心を考えて見て下さいね。

 

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夷陵の戦い

 

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セン

両親の持っていた横山光輝の「三国志」から三国志に興味を持ち、 そこから正史を読み漁ってその前後の年代も読むようになっていく。 中国歴史だけでなく日本史、世界史も好き。 神話も好きでインド神話とメソポタミア神話から古代シュメール人の生活にも興味が出てきた。 好きな歴史人物: 張遼、龐統、司馬徽、立花道雪、その他にもたくさん 何か一言: 歴史は食事、神話はおやつ、文字は飲み物

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