曹徳とはどんな人?実は曹操に弟がいた!?曹徳の生い立ちを紐解く

2019年6月8日


 

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曹徳(そうとく)

 

()武帝(ぶてい)曹操(そうそう)は著名ですが、弟の曹徳(そうとく)の存在を知る人はわずかでしょう。

 

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曹操の異母兄弟とも噂され、歴史書の記載もまちまちです。ここでは曹徳のミステリーな生い立ちについて解説していきます。

 

 

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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曹徳の生まれた年は不明

はてなマークな劉備と袁術

 

曹徳がいつ生まれたのかについては記載がありません。西暦200年前後の出来事だから、仕方ないと肩を落とす読者もいるでしょう。

 

曹操

 

しかし、あの曹操の弟です。何らかの糸口があるはずです。

 

 

曹嵩

 

 

出身は沛国(はいこく)で現在の安徽省(あんきしょう
)
周辺(上海の西)です。父親は曹嵩(そうすう
)
で長男が「曹操」。漢族で『後漢書(ごかんしょ)』によれば「曹疾(そうしつ)」という名前でも知られています。

 

日本人はあまり意識しませんが、中国では現在のパスポートにも「漢族」、「朝鮮族」といった記載があるのです。このカテゴリーで分けると日本人は「大和族」と呼ばれています。

 

 

 

ミステリー、曹徳は実在したのか?

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三国志(さんごくし)』では曹操に兄弟がいたという記載はありません。その三国志に『善哉行(ぜんざいこう)』という詩が載っています。

 

そこには曹操の母親は彼が小さいときに亡くなり、兄弟もいませんという内容。こうした経緯から父・曹嵩の側室(もう一人の妻)の子ではないかというスキャンダルがあります。魏の礎を作った曹操の兄弟ということでいろいろな噂が飛び交っていたのでしょう。

 

日本でも戦前は戸籍制度が充実しておらず、曹徳と似たような状況の子どもがいました。曹徳に関して言えば、歴史書が残る三国時代の話ですが、戦乱の世ですから正確な記述でない可能性も十分あります。

 

 

曹徳は陶謙の乱で殺された!?

陶謙

 

生まれた年は不明の曹徳ですが、亡くなった年は明らかで西暦194年です。きっかけは「陶謙(とうけん)」という人物が起こした反乱でした。

 

陶謙の乱が起きたとき、父・曹嵩は身を隠していました。曹嵩はもともと「太尉(たいい
)
」という軍事を担う大臣でした。後任を別の者にまかせ、一線は退いていましたが、軍部に顔が効いたのは事実です。

 

 

曹操は泰山太守(たいざんたいしゅう
)
(県知事のような役職)の応劭(おうしょう
)
に命じて兖州(えんしゅう)(山東省の南西)で父を迎え入れるように取り計らいました。『三国志』によれば曹操に恨みを持つ陶謙が徐州(じょしゅう)(江蘇省)で攻撃を仕掛け、曹嵩は騎兵によって抹殺されたとあります。

 

当時、曹嵩は100輌を超える物資を積んで戦いに備えていたため、近くを警護する陶謙の部下がこれらの財産を強奪したとも言われています。そして、町の外れで曹嵩と曹徳親子を惨殺したとあります(後漢書)。

 

さらに別の説では陶謙が曹嵩を護衛させるため部下を派遣したものの、部下が裏切って曹嵩の物資を強奪。その流れで仕留めたという話もあります。

 

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敵対していた陶謙が護衛のために兵を送るというのもいささか考えにくいでしょう。そのため、曹嵩や曹徳を仕留める目的で陶謙が刺客を放ったのではないか、という説もあります。

 

 

曹操の仇討ちは成功したのか?

怒る曹操

 

西暦193年。弟の曹徳、父の曹嵩が陶謙によって命を落としたことで反撃に出た曹操。曹操は怒り狂って突進し、戦地となった川は陶謙軍の亡骸で埋まったと言われています。つまり、一回戦は曹操が勝ったのです。

 

 

処刑を下す曹操

 

二回戦は北東へと場所を変えます。曹操は慮、睢陵、夏丘の三県を叩きのめし、兵士はおろか犬や鶏をも抹殺したそうです。父や弟を殺された恨みが、どれほど大きかったか想像に難くないでしょう。やがて、曹操軍は兵糧が尽き、撤退を余儀なくされ、陶謙は逃げ延びます。

 

 

曹操

 

翌年の4月、曹操はさらに進軍を開始。曹操の頭は復讐の二文字でいっぱいです。地の果てまで追いかけられた陶謙は、みるみるやつれていきます。

 

 

陶謙

 

そして、陶謙は病死してしまうのです。まさか陶謙も曹操がここまで追いかけてくるとは思ってもいなかったのでしょう。陶謙が力尽きた瞬間でした。

 

三国志ライター上海くじらの独り言

三国志ライター 上海くじら

 

書物によって記載が異なる曹徳の死。陶謙の部下が裏切ったのか、陶謙自身が命令したのかは定かではありません。

 

陶謙と劉備

 

いずれにせよ、これが契機となり曹操が打倒陶謙へと動いたのは確かです。まさに自業自得の反乱だったのです。

 

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上海くじら

三国志との出会いは高校生の頃に読んだマンガの三国志。 上海留学中に『三国志演義』の原文を読む。 また、偶然出会った中国人と曹操について語り合ったことも……。 もちろんゲームの三国無双も大好きです。 好きな歴史人物: 曹操、クリストファー・コロンブス 何か一言: 覇道を以って中原を制す

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