曹操と袁紹の明暗を分けた戦いが官渡の戦い、白馬の戦いというのはその官渡の戦いの中にも含まれていることがありますが、簡単に言ってしまうと官渡の戦いの前哨戦のようなものです。
しかしこの白馬の戦いが始まるもっと前から曹操と袁紹の明暗は既に分かれていたとも考えられます。今回は白馬の戦い、官渡の戦い、両方で名前が挙げられる袁紹の軍師、田豊と逢紀に付いてちょっとお話をしたいと思います。
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白馬の戦いの前からずっと進言していたのに!
さて官渡の戦いの前、白馬の戦いよりももっと前。曹操は領土を広げて袁紹の領土と肉薄、このままでは対決は避けられないだろうと袁紹軍でも考えられていました。
しかしこの時に曹操は劉備やら呂布やらと戦わなければいけなくなり、背後はがら空き!
今こそ、という進言をしたのが田豊です。
しかし袁紹は息子である袁尚が病気であることを理由に開戦をしませんでした。このことに田豊は怒り、天下を取る気があるのか、と悔しがって杖で地面を殴ったとも言われています。
その後曹操は地盤をしっかりと固めてから袁紹と戦いを決定。
袁紹も曹操との戦いを決意、そうするならもっと前から戦ってよ…と田豊は思ったかどうかは定かではありませんが、白馬の戦いが始まります。
ついに始まる白馬の戦い、ここでも袁紹は田豊の言うことを聞かず…
袁紹は曹操との戦いを決意しますが、袁紹軍と曹操軍との力の違いを考えた田豊は持久戦を主張。対して曹操との対決を主張したのが逢紀です。
袁紹は逢紀たちの作戦を取り上げ、最終的にはあくまで持久戦を主張し続けた田豊に怒って投獄してしまいます。
さてその後、官渡の戦いまで行ったにも関わらず、袁紹は曹操に敗北。この時に袁紹は敗北から猜疑心が強くなっており、田豊の意見を取り入れなかった後ろめたさもあったのか田豊を殺害してしまします。
因みに正史(注として引かれた「先賢行状」より)ではこの一件を逢紀が「田豊が『自分の言ったことを聞かないからだ』と袁紹様を笑っていましたよ」と言ったために怒って殺害したとなっています。
逢紀と田豊は常から仲が悪く、袁紹の転落はこの家臣の仲の悪さ、また田豊の策を取り入れなかったために、そして田豊を殺害してしまったから、とも言われることもあります。
しかしそれは果たして正しいのでしょうか?
此処だけ見ると逢紀は性格が悪いし、田豊は悲劇の軍師に見えますが、それは本当に正しいのか…まずは人材派遣に定評がある荀彧の評を見てみましょう。
教えて!荀彧先生による「田豊と逢紀の性格批評」
荀彧は「田豊は強情で上に逆らう人物である」と評しています。その一方で「逢紀は向こう見ずで自分勝手である」と評しているのです。こう見て比べて見ると両名共に性格に難があった人物とも取れますね。
逢紀もまた無能ではありません。彼は袁紹が旗揚げした頃から袁紹を支えて、冀州乗っ取りを献策したりするなど袁紹の地盤を固めた人物です。
袁紹を支え続けたからこそ、袁紹は逢紀を信じて重用してきました。現に袁紹は当時、かなり強大な勢力になっています。そこまで袁紹を導いてきたのはやはり逢紀あってこそだと思います。
なので「逢紀がいなければ袁紹は…」と言うのは、ちょっと違うのではないかと思います。
ですがやはり逢紀も完ぺきではありません。荀彧の評通りとするなら、彼もまた性格に難があったのでしょう。そして田豊もまた、性格に難があったと思われます。
田豊と袁紹の諍いはどこから始まったのか?
ここで田豊に話を戻します。
田豊は袁紹に策を用いられないばかりか、投獄され、最期には殺されてしまいます。この原因として逢紀の言葉が挙げられますが、実はそれ以前にこんなことがあります。
田豊はかつて韓馥に仕えていました。この時に田豊は袁紹の命によって、かつての同僚であった家臣たちの粛清を行っています。田豊の心中は分かりません。
もしかしたらやらなければ自分が、という葛藤があったかもしれませんし、あくまで自分はこれからは袁紹に仕えると割り切って行ったのかもしれません。しかし袁紹からすればかつての同僚をも粛清したその姿に「自分もいずれ見切りを付けられたらこうなるのでは」という思いが浮かんだ…それが白馬、官渡の戦いで思い起こされた可能性は、どうでしょうか。
決してそんなことはなかった、とは言い切れないと筆者は考えてしまうのです。
三国志ライター センの独り言
あくまでこれは想像にしかすぎません。
しかし田豊と逢紀、そして袁紹最後の一件だけでなく「そこまでに何があったのか」を見直してみるとまた別の考えが出てきて面白いですよね。
そしてこれこそ三国志を見る、そして誰かと語り合ってその考えを聞いて再考する、それこそが三国志の楽しみだと思います。
皆さんはどう思いますか?どう、考えましたか?
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