張飛にはどんな逸話があるの?イメージとは違う張飛の実像

2019年6月9日


 

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張飛と劉備

 

張飛(ちょうひ)(しょく)(221年~263年)の将軍です。蜀の初代皇帝劉備(りゅうび)に若い時から付き従って様々な功績を挙げました。張飛には嘘か誠か分かりませんが、様々な逸話が残されています。

 

張飛益徳参上

 

今回は現代にまで残されている張飛伝説について紹介致します。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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肉屋の張飛

劉備

北京市から約60キロメートルほど南に下ったところに劉備の本籍地の涿県(たくけん)があります。

そこから西南方向に行くと張飛の故郷と言われている「張飛店」という町があります。

 

張飛とkawauso

 

ちなみに「忠義店」とも言うようです。張飛はこの町で肉屋を営業していました。

また、張飛が肉を貯蔵していたと言われている古井戸も残っています。

 

張飛は人々に対して、「古井戸に乗せている岩を持ち上げたら中の肉はタダで差し上げます」と言っていました。現在で言うイベントを行っていました。

 

関羽

 

ところが偶然、通った関羽(かんう)があっさりと成功させたので面白くないです。

関羽と張飛はケンカになりました。

 

関羽、劉備、張飛の桃園三兄弟

 

そこを劉備が仲裁に入り、桃園の誓い(とうえんのちかい)が結ばれたのでした。

この話は無論創作です。張飛が肉屋だったことは正史『三国志(さんごくし)』には記載がありません。

 

劉邦と樊カイ

 

おそらく、前漢(ぜんかん)(前202年~後8年)の初代皇帝劉邦(りゅうほう)の武将の樊噲(はんかい)がモチーフではないかと推測されます。

 

樊噲 樊カイ(はんかい)

 

樊噲は肉屋出身でしたので・・・・・・

 

また、桃園決議も『三国志演義(さんごくしえんぎ)』の創作であり史実ではありません。

おそらく、民間で流布した俗説の1つでしょう。

 

 

 

知識階級を尊敬する張飛

実は頭がイイ賢い張飛

 

実は信じられないかもしれませんが、張飛(ちょうひ)は知識階級を尊敬していました。

「嘘だー!」と叫びたくなるかもしれませんが本当の話です。

 

張飛にボコボコにされる魏続(ぎぞく)と宋憲(そうけん)

 

張飛は下っ端兵士には暴力を振るい、知識階級にはペコペコする危ない性格でした。

 

パワハラをする張飛

 

現代でいう嫌味なパワハラ上司の姿です。

 

表情 劉備

 

劉備からその点の注意を何度も受けたようですが生涯、直りませんでした。

この点に関して面白い逸話が残っています。

 

五虎大将軍の張飛

 

張飛が劉巴(ふりがな)(りゅうは)という人物の屋敷に泊まった時の話です。

劉巴は荊州や蜀で知られた名士でした。

 

張飛はぜひ劉巴と酒を酌み交わしたかったのですが、劉巴は何もしゃべりません。

 

大声を出す張飛

 

怒った張飛は諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)に訴えます。

諸葛亮が劉巴を説得するも彼はこう言いました(翻訳は分かりやすくしています)

 

「なんで俺が、あんな兵隊野郎と一緒に飯を食わないといけないんだ?」

結局、断固拒否されました。

 

これには理由があります。劉巴は文化人の出身、張飛は無教養の庶民の出身です。生まれの壁から断ったのです。要するに劉巴のプライドが高かったのです。

 

 

張飛の死に気付いた劉備

キレる劉備になだめる黄権

 

蜀の章武(しょうぶ)元年(221年)に劉備は関羽の敵討ちのために()(222年~280年)に出兵しました。

もちろん、張飛も随行の予定になっていました。

 

張飛の寝込みを襲う張達と范彊

 

ところが、直前に張飛は部下の手にかかり殺されました。

この報告書が届いた時点で劉備は中身も読まずに「ああ、張飛が死んだか・・・・・・」と言ったそうです。

 

無論、劉備は予言者ではありません。これには理由があります。

 

亡くなる張飛将軍

 

この点については南宋(なんそう)(1227年~1279年)の政治家・学者でもある胡三省(こさんせい)が説明しています。

張飛が死んだ時に文書が都督(ととく
)
という位の低い人物から送られています。

 

文書は普通、将軍から送られるものなのにそれが段階を飛ばして送られたから、劉備は張飛の死に気づいたそうです。ちなみに、張飛の首は重たかったのか途中で捨てられたようです。

 

しかし、その首が自分の墓まで飛んでいったようです。

まるで平将門(たいらのまさかど)の首塚伝説ですね・・・・・・

 

 

三国志ライター 晃の独り言

三国志ライター 晃

 

以上が張飛の逸話に関しての記事でした。

劉巴と張飛の話に関しては後日談があります。

 

張昭 VS 孫権

 

孫権(そんけん)張昭(ちょうしょう)が2人の話を耳にしました。張昭は「張飛が劉備の長年の側近ということは分かっているのに拒否するのは失礼だな」と劉巴を責めました。

 

孫権と張昭

 

ところが孫権は「家臣が人の顔色を見てコロコロ態度を変える方が良くない」と言いました。

おそらく赤壁の戦いの張昭の降伏論に対する皮肉だと思います。

 

※参考文献

・高島俊夫『三国志 「人物縦横断」』(初出1994年 のち『三国志 きらめく群像』ちくま学芸文庫 2000年に改題)

 

関連記事:張飛はリーダー向き?三人兄弟の末弟はリーダー向きというアメリカの心理学論文は張飛に通用する?

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英雄の死因

 

 

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晃(あきら)

晃(あきら)

横山光輝の『三国志』を読んで中国史にはまり、大学では三国志を研究するはずだったのになぜか宋代(北宋・南宋)というマニアックな時代に手を染めて、好きになってしまった男です。悪人と呼ばれる政治家は大好きです。
         好きな歴史人物:
秦檜(しんかい)、韓侂冑(かんたくちゅう)、 史弥遠(しびえん)、賈似道(かじどう) ※南宋の専権宰相と呼ばれた4人です。
何か一言: なるべく面白い記事を書くように頑張ります。

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