四友筆頭の司馬懿と二番手・陳羣はどんな活躍をしたの?

2019年6月25日


 

曹丕に進言をする劉曄

 

曹丕(そうひ)曹操(そうそう)から四人のアドバイザーを付けられます。彼らは曹丕のアドバイザーとして力を尽くし、後に四友と呼ばれることになりますが、この四友(しゆう)筆頭が誰だかご存知ですか?

 

司馬懿と曹丕

 

四友筆頭は司馬懿(しばい)です。

 

陳羣と曹丕

 

そして二番手は陳羣(ちんぐん
)
ですが、(人によっては順番が違うかもしれませんかここはレンのランク付けで進めていきたいと思います。)今回はこの四友筆頭の司馬懿と二番手・陳羣を今回は紹介したいと思います。

 

自称・皇帝
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関連記事:陳羣(ちんぐん)って九品官人法以外の実績ってあるの?

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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四友筆頭・司馬懿…曹操の招きにビビって仕えた!?

司馬懿

 

四友筆頭の一人・司馬懿はどのような人物だったのでしょうか。ここでは明帝(めいてい)曹叡(そうえい)の時代に諸葛孔明(しょかつこうめい)と激闘を繰り広げた司馬懿の活躍ではなく、曹操~曹丕時代の司馬懿について紹介したいと思います。

 

司馬懿と曹操

 

司馬懿は初めから曹丕のアドバイザーとして仕えたわけではなく、役所の長として官位に就きます。曹操は司空時代、司馬懿の才能を発見すると「私に仕えなさい」と言って司馬懿を配下に加えようとします。

 

司馬懿と曹操

 

しかし司馬懿は病気を理由に曹操の招きを辞退。曹操はその後、丞相(じょうしょう
)
となると再び司馬懿を招くため使者を送ります。この時、曹操は使者へ「司馬懿が再び断るようなら、首に縄を付けてでも連れてこい!!」と命令。

 

司馬懿

 

司馬懿は曹操の使者からこの話を聞くとビビりまくり、ついに曹操の元へ出仕することになります。

 

 

 

曹操側近の官職を歴任

頭を下げて礼を尽くして接する司馬懿

 

司馬懿は曹操の元に仕えると初めは文学掾と呼ばれる官職についた後、曹操の側近に引き上げられます。その後司馬懿は曹操の側近から曹丕のアドバイザーとして仕えることに。

 

 

樊城救出作戦を提案

司馬懿

 

司馬懿は曹丕のアドバイザーとして仕え、色々と彼の為にアドバイスを行っていきます。例えば司馬懿は曹丕のアドバイザーとして仕えていたある日、関羽(かんう)が蜀軍を率いて樊城を包囲する事件が起きます。

 

曹操の頭痛の原因は関羽?

 

曹操は関羽の北上に驚き、遷都(せんと)を考えるほど恐怖を感じていました。司馬懿は曹操へ「孫権(そんけん)を動かして荊州(けいしゅう)を攻撃させれば、樊城(はんじょう)の包囲はおのずと解けると思われます。」と進言。曹操は司馬懿の進言を受け入れて、孫権へ使者を出し、荊州攻撃を要請します。すると司馬懿の進言通り、樊城の包囲は解けることになります。

 

父・関羽とともに亡くなる関平

 

そして関羽は孫権軍の攻撃を受けて敗北し、討ち取られてしまうのでした。

 

皇帝に就任した曹丕

 

こうして司馬懿は曹操時代に活躍し、曹操が亡くなると曹丕が後継者として魏王に就任。司馬懿は四友時代から曹丕と交流があった事もあり、政治の中枢へ参画することになります。

   

 

政治の中枢へ

司馬懿

 

司馬懿は曹丕が皇帝として君臨すると皇太子時代から能力を認められていた事もあり、撫軍大将軍など高い官職を歴任。

 

司馬懿と曹叡

 

また曹丕は亡くなる間際、司馬懿へ曹叡の事を頼み、曹叡が皇帝として君臨すると魏王朝の重鎮として重用されるのでした。

 

四友二番手・陳羣は曹操時代に忠臣と名臣を推挙

陳羣

 

四友の二番手・陳羣(ちんぐん)はどのような人物だったのでしょうか。

 

劉備を警戒する陳羣

 

陳羣も司馬懿同様、元々曹丕に仕えていたわけではなく、劉備(りゅうび)から呂布(りょふ)、曹操へ仕えることになります。陳羣は曹操に仕えると戴乾と陳矯(ちんきょう
)
の二人を推挙。戴乾は後に孫権の攻撃を受けてしまい、逃げることをしないでそのまま曹操への忠義を貫いて亡くなります。

 

陳羣

 

そして陳矯は曹操に仕えた後、文官として活躍し、曹丕・曹叡(そうえい)時代にも文官として功績を残し、司空にまで登ることになります。このように陳羣は曹操時代に多くの名臣を推挙していき、曹操も彼の実績を認め、各職を歴任させ曹丕のアドバイザーへ転任させるのでした。

 

「わが顔回」と尊敬される

陳羣

 

陳羣は曹丕のアドバイザーになると曹丕から、凄く尊敬されます。曹丕は陳羣が好悪で物事の判断をせず、道義に外れた事を押し付けない彼の性格を大いに褒めたたえ、陳羣に対して友人のように接していたようです。

 

陳羣

 

更に曹丕は「陳羣は私の顔回(孔門十哲の一人で一番の秀才)だから私の周りは日に日に良くなっていく」と尊敬の言葉を述べていたそうです。その後陳羣は曹丕が皇帝になると侯の位を付与され、尚書として昇進することになります。

 

九品官人法を制定する

陳羣 九品官人法の書物

 

陳羣は曹丕が皇帝に就任すると曹丕へ「九品官人法」を制定するようにアドバイスを行います。では「九品官人法(きゅうひんかんじほう)」とはいったいどのような制度なのでしょうか。ざっくりと「九品官人法」を紹介したいと思います。

 

九品官人法を作った陳羣

 

九品官人法とは中国各地の中正官がその土地の人物をランク分け(一~九まで)し、中央政府へ報告。中央政府は中正官から報告を受け、その人物をランクに応じて、政府へ就職させる制度です。

 

例えば最高位の一品ランクの格付けを中正官から受けた人物は、四ランク下の五品から役所で働くことになり、頑張れば最高位の一ランクにまでなれるよという制度です。曹丕は陳羣のアドバイスを受けると早速、九品官人法を施行。

 

魏の旗をバックに戦争をする郭淮は魏の将軍

 

こうして魏の登用制度は革新されることになります。陳羣はこれらの功績から魏の重鎮として重宝され、曹丕から曹叡を補佐するように命令されることになるのです。

 

三国志ライター黒田レンの独り言

三国志ライター黒田レン

 

今回は四友筆頭・司馬懿と二番手陳羣を紹介しました。では残りの四友はいったい誰と誰なのでしょうか。一人目は呉質と呼ばれる人物です。二人目は朱鑠です。彼ら二人も曹丕のアドバイザーとして活躍をした人物なので、興味のある方はぜひ調べてみてはいかがでしょうか。

 

■参考文献 正史三国志魏書・陳羣伝など

 

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