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袁紹は凡将に非ず!袁紹の逸話から伝わってくる袁紹本初の評価

2019年6月26日


 

 

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亡くなる袁紹

 

袁紹(えんしょう)と言えば三国志(さんごくし)の武将の一人ですが、最後に曹操(そうそう)に負けてしまうこともあってどうしてもその評価は下がりがち、もしくはあまり高くはないように思います。どうしても曹操が名を上げていく過程の人物の一人、と描かれることが多いんですよね。

 

後継者を決めずにダラダラする袁紹

 

しかし実際に袁紹は凄くないのか?いいえ、そんなことはありません。今回は袁紹の逸話を色々と紹介していきますから、その凄さを再確認してみましょう。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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袁紹ってどんな人?~意外とイケメン~

袁紹が宦官を惨殺に行く

 

さて袁紹がどんな人なのか、まずはその見た目から解析していきましょう。ここで注目したいのは「姿貌威容あり」という記述。つまり優れていて威厳を感じさせる佇まいであった、また「姿弘雅」という記述から姿の雅やかさ、つまり美しい人物であったと書かれています。今風に言ってしまうと、袁紹はイケメンで堂々とした威厳のある人物だったというのです。

 

 

しかし堂々としている、威厳のあると書かれている一方で「体長婦人」と書かれていることが気になります。つまりは女性くらいの身長、小柄である人物と言えるのです。小柄なのにイケメンで、堂々とした人物で、威厳もあって……流石名家の坊ちゃん!と思った人はちょっとまだ判断が早いですよ。

 

次の逸話を見ていきましょう。

 

 

 

なんと!意外にも袁紹は身分が低かった?

袁紹の妃 劉氏

 

「袁紹の母親は婢女であり」とあるように、とにかく名家出身の強い袁紹ですが、その母親は言い方が悪いですが身分が高くはなかったようです。これはあくまで推察ですが、侍女に手を付けて産まれたのが袁紹だったのでしょう。因みに父親は産まれてすぐなくなっており、叔父たちに引き取られて成長していきます。

 

一方で袁家の人物として袁術がいますが、こちらの母親は葬式の際に何人もの名士が参列したと言われています。このため袁術は父親だけでなく、母親の身分も高い人物だったのでしょう。

 

美化された袁紹に羨む袁術

 

袁紹と袁術(えんじゅつ)の身分は、母親で大きくついていると思われます。なので袁紹は名家である袁家の中でも立場が低かったのです。しかし袁紹はしっかりと史書に名が残されるほどの人物、つまりそれだけ「凡人ではなかった」という証明にはならないでしょうか?

 

 

袁紹の性格って優柔不断?それとも……

袁紹を説得しようとする沮授

 

ちょっとここで正史の袁紹の記述を見ていきましょう。皆さんは袁紹って優柔不断な性格で、それが災いして曹操にやられてしまった、と思っていませんか?

 

袁紹を説得しようとする田豊

 

それもその通り、袁紹の人物批評は陳寿(ちんじゅ)によると「外面は寛大に振舞いながら内面は猜疑心が強く、謀を好みながら決断力に欠けていた」というもの。

ぶっちゃけてしまえば疑り深い優柔不断です。

 

官渡の戦い 騎馬兵

 

しかしその一方で、正史の袁紹の行動として、官渡の戦(かんとのたたかい)いで以下のような行動が書かれています。

 

「曹操が徐州(じょしゅう)を攻めている間にすぐに軍を派遣して白馬を攻めた」

「官渡の攻勢では曹操よりも早く動いた」

「補給基地を攻撃されたと知るとすぐに救援派遣を行った」

 

袁紹、袁尚、袁譚

 

この行動だけを見ると決して優柔不断とは言い切れません。とは言えこれ以前に我が子が心配で戦いを拒否したり、後継者問題をすぐに解決できなかったり、最終的に曹操に敗北してしまう原因として部下を信用しきれなかったりしたからこそ、優柔不断、の烙印を押されて然るべき一面も確かにあります。

 

この辺りの評価は難しいところですから、袁紹の評価が難しくなるのも仕方のないことかもしれませんね。

 

 

逸話から読み取っていく袁紹の評価

朝まで三国志 袁紹

 

袁紹の評価は、色々なものがあります。

 

袁紹の悪口を言う郭嘉

 

しかし当時敵対している郭嘉(かくか)から袁紹は「人民を大切にしていたから息子たちも何とかなっている」っと言われたり、荀攸(じゅんゆう)からも「寛大で温情を与える人物だった」と言われ、更には袁紹が亡くなった時には百姓たちもが嘆き悲しんでいたとされているほど、民衆に慕われていました。

 

袁紹

 

袁紹は決して名家出身のお坊ちゃんで、身分が下の人を見下すような人物ではなかったということでしょう。寧ろ出身を考えると、多くの人たちを大切にした人物と言えるのではないでしょうか。そう考えるともしかしたら袁紹は、出身からとても努力して名を遺した名将の一人、とは思えなくはないでしょうか。

 

三国志ライター センの独り言

三国志ライター セン

 

筆者としては、袁紹は日本で言うところの今川義元(いまがわよしもと
)
に近い存在だと思っています。

 

官渡の戦い 曹操 勝利

 

名家出身、しかしだからと言って苦労をしていない訳ではなく、かなりの名将だったが最後に敗北。敗北した相手がよりにもよって後々名を遺したばっかりに凡将の烙印を押される……そんな悲哀を、袁紹からも感じました。

 

だから曹操の引き立て役、なんて言わずにどうか、袁紹の逸話からもその人物評をちょっとだけ見直してほしいですね。

 

参考:wikipedia 袁紹の逸話

 

関連記事:白馬の戦い前から分かれていた曹操と袁紹の明暗!その原因とも思える田豊と逢紀の人柄

関連記事:袁紹の死因はメンタルの弱さにあった?河北の支配者・袁紹の死因を考察

 

官渡の戦い特集

 

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セン

両親の持っていた横山光輝の「三国志」から三国志に興味を持ち、 そこから正史を読み漁ってその前後の年代も読むようになっていく。 中国歴史だけでなく日本史、世界史も好き。 神話も好きでインド神話とメソポタミア神話から古代シュメール人の生活にも興味が出てきた。 好きな歴史人物: 張遼、龐統、司馬徽、立花道雪、その他にもたくさん 何か一言: 歴史は食事、神話はおやつ、文字は飲み物

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