袁紹の死因はメンタルの弱さにあった?河北の支配者・袁紹の死因を考察

2019年4月23日


 

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公孫瓚を倒した袁紹

 

 

199年に公孫瓚(こうそんさん)を滅ぼし、冀州(きしゅう
)
青州(せいしゅう)并州(へいしゅう
)
幽州(ゆうしゅう
)
を制覇するに至った袁紹(えんしょう)は、並みいる群雄(ぐんゆう)の中で当時もっとも天下に近い存在にありました。

 

朝まで三国志 袁紹

 

しかし、官渡の戦い(かんとのたたかい)で曹操にフルボッコされたわずか2年後、敗戦の精神的ショックから血を吐き倒れ死んだとされていますが、袁紹の死因は本当にメンタルの弱さにあったのでしょうか、徹底検証します。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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袁紹がメンタルの弱さから病気になったとする根拠をまず論破!

袁安

 

袁紹は後漢朝廷(ごかんちょうてい)において4世代にわたり行政のトップである三公(さんこう)を輩出した、「汝南袁氏(じょなんえんし)」の出身です。

 

亡くなる袁安

 

一族繁栄の礎を築いた始祖(しそ)袁安(えんあん)は、政敵である竇氏(とうし)の専権を気に病みつつ死去。さらに、ひいおじいさんにあたる袁敞(えんしょう
)
は息子の不祥事を恥じ自殺しているほか、

 

袁術の最後

 

いとこにあたる袁術(えんじゅつ)も落ちぶれた身の上に絶望し、2Lもの血を吐いて死んだと伝えられるなど、袁家(えんけ)には代々メンタルの弱さが垣間見える逸話が残っています。

 

袁紹の悪口を言う郭嘉

 

そのため、良家のボンボンである袁紹(えんしょう)も袁術と同様にメンタルが弱く、格下・曹操(そうそう)に負けたショックで病気になり失意(しつい)のうちに死んだ、というエピソードが良く出てくるわけです。

 

 

袁紹が宦官を惨殺に行く

 

 

しかし袁紹は、根っからの御曹司(おんぞうし
)
である袁術(えんじゅつ)とは異なり生まれてすぐ父と死別、20歳の若さで渤海令に任じられましたが、生母が亡くなると父への考も尽くすため、合計6年の喪に服した後、洛陽(らくよう)隠遁(いんとん)生活を送っていた苦労人。

 

袁術 袁紹

 

同じころ仲間と放蕩(ほうとう)の限りを尽くしていた袁術と違い、快活な性格と名家出身らしからぬ謙虚(けんきょ)な態度から、後に覇権を争う曹操(そうそう)はじめ大勢の人々から慕われたのだとか。

 

 

袁紹モグラ作戦

 

 

また、数年にわたりしぶとく包囲を続け地道に地下道を掘り、天下の堅城を攻略して公孫瓚(こうそんさん)を自決に追い込んだ易京の戦い(えきけいのたたかい)を見ても、彼の用心深く我慢強い性格が見えてきます。

 

袁紹、袁尚、袁譚

 

快活で我慢強い性格の袁紹がいかに大戦とはいえ、一度の敗北でショックを受け健康を害したとは、とても考えられないのです。

 

 

 

官渡の戦いでフルボッコされてもビクともしなかった袁紹

官渡の戦い 騎馬兵

 

そもそもの話をすると袁紹がフルボッコされた官渡の戦い(かんとのたたかい)は、領地防衛戦争ではなく侵略戦争であり、曹操が勝利を収めたこと自体ミラクルですが、敗北した袁紹からすれば一旦本拠地へ引き上げ、再起を図ればいいだけのこと。

 

袁紹を説得しようとする田豊

 

ただ、官渡でのボロ負けとその前後で有能な人材を失い家臣団は分裂気味、しかも各地方では叛乱(はんらん)が多発…、この時点で袁家終了~♪

 

袁紹VS公孫瓚

 

かと思いきや袁紹の胸には再起の炎がメラメラと燃え盛っており、家臣団を再び統括し直すと、各地で起こった叛乱をチャッチャと鎮圧してしまうのです。

 

袁紹と曹操

 

あまりの手際の良さに、勢いづいているはずの曹操も手が出せず、「袁紹の生きてるうちは無理かも…」とと考えたのか、袁紹の存命中は河北(かほく)に侵攻しなかったほどです。

 

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老骨に鞭打ち過ぎ?!袁紹に死因は「過労死」かも!

亡くなる袁紹

 

袁紹(えんしょう)病没(びょうぼつ
)
したのは202年7月、前半生がはっきりしないため推測(すいそく)になりますが、彼の没年齢は「48歳」辺りとみられています。三国時代当時の平均寿命は50歳辺り、戦での討ち死にを除いた場合、48歳という袁紹の没年齢は「若すぎる死」とは言えません。

 

曹操VS袁紹

 

そして、ライバル曹操との世紀の一大決戦に望んだ時の袁紹は推定46歳、当時の価値観で考えれば、既に第一線を退いてもおかしくない「おじいちゃん」です。官渡での大敗で本当に気落ちして次世代に家督を譲っていれば、もっと長生きしたかもしれません。

 

 

袁紹

 

 

しかし、彼のメンタルは弱いどころかむしろ強靭(きょうじん
)
、大敗を喫しても決して萎えず、事態収拾に奔走した結果健康を害しこの世を去った…。つまり、今風に言うと年甲斐もなく一人で働きまくった末の過労死(かろうし)」こそ、実は袁紹の死因だったのではないでしょうか。

 

 

 

三国志ライター酒仙タヌキの独り言

酒仙タヌキ 三国志ライター free

 

袁紹は生前後継者を決めていなかったため、彼の死後長男・袁譚(えんたん)派と三男・袁尚(えんしょう)派による苛烈な相続争いが勃発し、その間隙を曹操に突かれ、袁家は滅亡の憂き目にあうことになります。

 

袁紹、袁尚、袁譚

 

死因になったかどうかはともかく、最後までワンマンを貫いたことこそ、袁紹の華麗なる人生において、最大の失敗だったと言えるでしょう。

 

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英雄の死因

 

 

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酒仙タヌキ

酒仙タヌキ

小学生のころから司馬遼太郎を読み漁ってきた筋金入り、高校在学中に中国にホームステイしたころから雄大なその魅力に憑りつかれ、いまや晩酌と歴史をこよなく愛する立派な「中年歴男」に。 戦国・幕末はじめ三国志はもちろん、最近では韓流歴史ドラマにドはまり中、朝鮮王朝ロマンに浸りながら嫁タヌキの作るおつまみをつまむのが人生最高の喜び。 好きな歴史人物: 徳川慶喜、上杉鷹山、程昱、荀攸など、どっちかと言うと脇役好き。 何か一言: 歴史はそのまま政治・経済学であり、そして何より人生を豊かにしてくれる「哲学」と考えています。

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