三国志の時代は兄弟が家の後継を巡ってちょくちょく兄弟喧嘩をしていました。例えば曹操の後継をめぐって曹丕と曹植が兄弟喧嘩をしています。
また孫家も孫権の後継者をめぐって、孫家を二分した激しい兄弟喧嘩を繰り広げていました。今回はこの兄弟喧嘩の主役の一人・孫覇について紹介したいと思います。
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孫権に気に入られた孫覇
孫権は孫和の弟・孫覇をすごく気に入っていました。その証左として正史三国志呉書・孫覇伝にこのような記述があります。孫権は孫覇を可愛がり、孫覇と遜色ない待遇を与えたと記載していることから、孫権が孫覇を皇太子・孫和と同じくらい可愛がっていた事が伺えます。
癖のある人物
孫覇は自分が孫権から可愛がられている事を知り、孫権の後継者になりたいと考えていました。孫覇の側近達は孫覇の心情を知り、孫和を蹴落とすため孫権や他の重臣達等へ孫和の悪口をいっぱい言っていたそうです。この結果、孫和は孫権から嫌われることになり、皇太子の地位を外すことに成功。
このことから孫覇は自分の地位を上げるためなら、他人を蹴落としても上がりたいと考えていた人物で、かなり癖のある人物だったと思われます。癖のある孫覇は他人にも癖のある人物だと思われていたのでしょうか。
孫覇の評価について紹介したいと思います。
羊衜の孫覇評「聡明で才能ある人物」
二人の人物が孫覇の評価をしていました。
一人目は孫権の家臣・羊衜という人物です。
羊衜は孫権へ孫和と孫覇の待遇にしっかりと差をつけた方がいいとアドバイスを行った事がありました。この時、羊衜は孫権へ「お二人の宮様は聡明で才能のある人物で、国内外で評判になっています」と評価。
この羊衜が孫権に述べた言葉の中にある二人の宮様は、孫和と孫覇の事を指しており、孫覇が優秀な人物であったことが伺えます。しかしこの羊衜の孫覇評とは全く正反対の意見を述べている人がいました。
その人は正史三国志の注訳を作った裴松之です。
裴松之は孫覇へどのような評価をしたの??
正史三国志の注訳を作った裴松之は孫覇をどのように評価していたのでしょうか。裴松之は孫覇を「孫覇には何も良い評判もなく、彼自身にいい素質を持ったところなど一つもなかった」と厳しい評価を与えています。
一体どちらの評価が正しいのでしょうか。
裴松之の評価の方が正解!?
羊衜と裴松之の孫覇評は全然違いますが、どちらの評価が正解なのでしょうか。レンの推測ですが、裴松之の評価が正しいように考えます。その理由は羊衜が孫権の臣下で、皇室の人間である孫覇を孫権の前で悪く言う事が難しかっただと思われます。
羊衜が孫覇評を孫権へ述べた時、孫和と孫覇の対立が激しい時でした。そのためもし羊衜が孫権の前で「孫覇様はポンコツで才能に乏しい人物だから、孫和様を皇太子にした方がいいですよ」なんて言ったら、流罪になったり、死罪になっていたかもしれません。
例えば、陸遜や吾粲など孫和を支持していた重臣ですら、孫権から激怒され、陸遜・吾粲共に罪を着せられた後、亡くなっています。このことから孫権の中堅家臣・羊衜が、上記のような事を言える状況ではない事から、孫覇を持ち上げていたと考えることができます。
しかし裴松之は三国志の時代から数百年後に生まれた歴史家で、孫権に遠慮する必要がなく、三国志の時代の資料をしっかりと読み漁って正史三国志に注訳を付けていたはずです。
そのため裴松之の孫覇評は誰にも遠慮することなく、歴史の資料を読み漁った結果の評価だと思われますので、裴松之の評価が正しいと推測することができます。
三国志ライター黒田レンの独り言
今回は二宮の変の当事者・孫覇について、語らせていただきました。孫覇の側近や孫覇を支持していた孫呉の重臣達も彼を止めることなく、支持しているだけでした。
そのため孫覇を支持していた人物の中に一人でも孫覇へ「孫和様と対立するのは良くありません」と注意する人物がいれば、彼の評価も少しは変わったのかもしれませんね。
■参考文献 正史三国志呉書など
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