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姜維が永安城に入城すれば蜀の復興も可能だった?

2019年8月21日


 

北伐したくてたまらない姜維

 

北伐(ほくばつ)を推し進めたため、蜀の内部で孤立してしまった姜維(きょうい)。彼は魏軍が漢中へ押し寄せてくると剣閣へ籠り、魏軍と戦いを継続しますが、劉禅(りゅうぜん)が降伏し蜀が滅亡したため、姜維も魏軍へ降伏。

 

鍾会を説得する姜維

 

その後姜維は魏軍の総大将だった鍾会(しょうかい)を利用して、蜀の復興を図りますが、失敗し捕えられて殺害されてしまいます。姜維の蜀復興計画は史実では失敗に終わりますが、どうすれば蜀の復興が可能だったのか少し考えてみたいと思います。

 

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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永安城へ逃げる

降参する姜維

 

姜維は劉禅(りゅうぜん)が降伏すると剣閣を攻撃していた魏の総大将・鍾会へ降伏します。もし姜維が鍾会へ降伏するのではなく、蜀軍を南下させて永安城へ入城すれば蜀の復興も可能だったのではないでしょうか。

 

 

 

永安城の利点

劉備の臨終に立ち会う孔明

 

劉備(りゅうび)夷陵の戦い(いりょうのたたかい)で逃亡した城として有名な白帝城。この白帝城は劉備が夷陵戦いで敗北して逃亡した後、永安と名称を変更しています。さてこの永安城は荊州へ近く、蜀の盟友として知られる呉軍の領土と接していました。

 

大船団を率いて呉を攻める王濬(おうしゅん)

 

そのためこの永安城は呉から援軍を向かい入れることが可能な地で、この城の大きな利点と言えます。そして姜維は劉禅が魏へ降伏した後、剣閣の蜀軍を南下させて永安城へ入城できれば、呉へ使者を派遣して援軍を要請し、魏軍と戦いを継続出来たでしょう。

 

また二つの目の利点として防衛しやすい城だった事です。蜀滅亡後永安城主だった羅憲はこの地を数千の兵力で、数万から編制される呉軍の猛攻を半年以上も、耐え忍んでいます。このことから姜維が数万の兵力で入城すれば、魏軍の攻撃を数か月以上耐え忍べます。

 

 

蜀の復興は可能だった!?

姜維、孔明

 

上記で永安城の利点をいくつかお伝えしましたが、結局姜維が永安城へ入城したら、蜀を復興することが可能だったのでしょうか。レンの推測ですが、多分蜀を復興出来たかもしれません。だが姜維の蜀復興計画にはいくつか必須条件があります。

 

棗祇(そうし)食料・兵糧担当

 

一つ目に姜維が剣閣から永安城へ入城した後、大量の食料を永安城へ集める事です。

「腹が減っては戦が出来ぬ」の諺が示す通り、お腹が空いてしまえば、全力で戦闘できず力尽きてしまうからです。

 

羅憲

 

二つ目に呉の援軍を必ず引き連れてこられるような、外交能力に秀でた人材が必要です。この点は羅憲(らけん
)
が一度呉を訪れていますので、呉へ訴えて援軍を連れてくることが可能であるかもしれません。

 

そして三つ目ですが、永安城へ籠城している間、蜀の南部を統治していた霍弋と連絡を取り、永安城で戦闘が行われている間、魏軍へ攻撃してもらうように要請する事です。

 

司馬昭の質問に回答する劉禅

 

これら三つの条件を達成できれば、仮に劉禅が魏の首都・洛陽(らくよう)へ連れていかれて、蜀の皇帝として戻ってこなくても、劉禅の子供達を皇帝へ擁立すれば、蜀を復興できたと思いますが、皆様はどのように思いますか。

 

 

三国志ライター黒田レンの独り言

三国志ライター黒田レン

 

今回は姜維が永安城へ入城できれば、蜀を復興できるのかを考えてみました。上記で蜀復興に必要な必須条件三つを紹介しましたが、三つ目の条件である霍弋に援軍を出してもらうのは、困難が伴うかもしれません。

 

その理由は姜維が蜀の臣下達から孤立していたからです。姜維は毎年北伐をして、成果を出せませんでした。そのため姜維は張翼(ちょうよく
)
廖化(りょうか
)
達から、批判ばかり受けていました。

 

蜀霍弋(かくよく)

 

霍弋(かくよく
)
も姜維の無謀な北伐に悪感情を抱き、姜維の批判をして、嫌っていたかもしれません。もし霍弋が姜維に悪感情抱いていれば、協力してくれる可能性がかなり低下し、蜀の復興も実現不可能になるかもしれません。そのため霍弋を動かすのであれば、姜維自ら彼の元を訪れて説得することが必須条件になるかもしれません。

 

■参考文献 正史三国志蜀書など

 

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黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

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