周瑜は呉(222年~280年)の将軍です。呉の建国前に亡くなっているので、正確には後漢(25年~220年)末期の将軍が正しいでしょう。赤壁の戦いの功労者として有名であり、京劇や小説では美男子であることから「美周郎」と呼んでいます。
小説『三国志演義』での周瑜は才能にあふれた人物として描かれていますが、ライバルの諸葛亮登場以降は、秘策を次々と破られていき、最後は憤死するという哀れな結末です。
しかし、史実の周瑜はそのようなピエロではありません。今回は正史『三国志』を中心に周瑜が軍事だけではなく、政治も人付き合いも上手であったことを解説します。
「周瑜 名将」
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孫権をフォローする周瑜
建安5年(200年)に孫権の兄の孫策が外出中に奇襲されました。即死することはありませんでしたが、傷口が悪化してしまい間もなくこの世を去りました。後を継いだのは弟の孫権でした。
孫策は生前、部下の周瑜を友人として待遇していました。そこで孫権の母の呉夫人は孫権に周瑜を兄として仕えるように伝えます。
さて、後を継いだばかりの孫権の年齢は19歳でした。位は討虜将軍。これは「雑号将軍」と呼ばれるものであり正式官職ではなく「臨時官職」でした。正直言うと珍しい官職ではありません。
孫家は父の孫堅・兄の孫策の2人で強くなったとはいえ、やはり呉に昔からいる諸将や賓客、名門貴族からすれば成り上がりの一族にしか見えません。ましてや、孫権は19歳の若者なので君主としての力が未知数。彼らは孫権に対して部下として礼儀がなっていませんでした。
孫権の主君としてのプライドはズタズタ・・・・・・
ところが、そこで周瑜が登場します。周瑜1人だけが孫権に対して部下としての礼儀をわきまえた態度をとります。周瑜の一族は朝廷に出仕していた生粋のエリート。その一族である周瑜が地方将軍の孫権に頭を下げています。
そのような光景を見せられたら、他の人々も頭を下げないわけにはいきません。こうして孫権の主君としての名誉は周瑜により守られたのです。
程普と仲直りする周瑜
周瑜は呉の将軍の程普と最初は仲が良くありませんでした。程普は孫権の父の孫堅から仕えており、呉では古参に該当します。程普は若くして主君の孫策・孫権に気に入られていた周瑜が気に食わなかったのです。そのため周瑜をバカにしていました。
西晋(280年~316年)の虞溥という人物が執筆した『江表伝』という書物によると、周瑜は程普と張り合っても仕方ないと感じたのか、常に年長者の彼に対して丁寧に接します。
やがて周瑜の思いが通じたのか程普は人にこんなことを語っていました。「周瑜と話していると、酒を飲まされたように気分がよくなる。自分が酔ったと気づかないくらいだよ」
この逸話は有名であり映画「レッド・クリフ」でも取り上げられました。
残念ながら程普と周瑜が何を語り合ったのか史料は何も残していません。だがその後、2人は協力関係になり赤壁の戦いで見事に曹操を破ったのです。
三国志ライター 晃の独り言
以上が周瑜の名将ぶりを解説しました。筆者が「周瑜伝」を読んでみると「軍人」というよりも「文化人」という面が強いです。
彼が後世、軍人として有名なのは赤壁の戦いの功労者であることや、小説『三国志演義』の影響が強かったからでしょう。余談ですが、江戸時代に出版されていた『絵本通俗三国志』という『三国志演義』の挿絵本に描かれている周瑜は、「美周郎」から程遠い表情をしています。
完全に悪役の顔でした・・・・・・
おそらく、ライバルの諸葛亮と対比させるためだろうと考えられています。諸葛亮は悟りきった仙人のような顔をしているのに周瑜は悪面・・・・・・
そこまで差別せんでもいいじゃないかと思いました(泣)
※参考文献
・岡本淳子「日本に於ける周瑜像についての一考察―江戸時代を中心―」(『立命館大学白川静記念東洋文字文化研究所』7 2013年)
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