いきなりですが、五虎将軍の一人趙雲が、「劉備の配下にならなかった」と仮定します。
それによって三国時代の勢力図はどう変わるでしょうか?
陳寿の『正史三国志 蜀書』の記述をベースに、そんなイフ展開を考えてみました!
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この記事の目次
史実の整理:そもそも趙雲ってどうして劉備の部下になったのだっけ?
まずは『正史』において、趙雲と劉備の二人の出会いは、どのように記述されているかを確認しておきましょう!
・もともと趙雲は、公孫瓚の配下であった
・公孫瓚が、自分のもとに身を寄せていた劉備を派遣して袁紹軍を防がせたとき、その劉備に随行した将軍の中に、趙雲も入っていた。これが仲良くなるきっかけだった
・その後、長坂の戦いで、趙雲は劉備の妻と子を救出した
あれ?
記述としては、こんなあっさりとした感じです。
「趙雲がなぜ劉備の配下になったのか」の詳細はほとんど語られておらず、話は数年すっとばされて、いきなり長坂の戦いに大ジャンプしてしまっていますね。民間伝承や、三国志演義の世界では、劉備と趙雲の出会いはいろいろ脚色されているのですが、肝心の『正史』では、与えられている情報があまりにも少ない。
正史から我々が理解できるのは、
「趙雲は公孫瓚の配下だった」
「いつのまにか劉備の配下になっていて、長坂の戦いで活躍した」
という断片的な話だけです。間がスッポリと抜けています。
しかし「趙雲が公孫瓚の配下であり続けた場合」を考えてみただけで、インパクトは十分巨大!
となると、「趙雲が劉備の配下にならなかった」世界では、何が起こるのか?
たいした違いはないのではないか?
と思いきや、その「イフ世界」においては、意外な人物が、大変おトクなポジションを得られることに気づきます。
そう、公孫瓚です!
三国志の展開の中では、ハッキリ言って、「序盤のザコ」の印象である公孫瓚。
その部下の名前など一人も思い出せません。ですが、趙雲が劉備と出会わず、公孫瓚に生涯の忠誠を誓い続けていたとなると、どうでしょうか?
公孫瓚は「序盤のザコ」どころか、「北方に控えている、やけに強い副将をいつも連れ添っている怖いオッサン」に印象が変わるのではないでしょうか?
そういえば『正史』によると、公孫瓚軍は「白馬ばかりを集めた騎馬隊を駆使して、かなり袁紹軍を苦しめ、白馬将軍の異名をとった」というさりげない記述もあります。
公孫瓚軍、三国志の全体の中では目立たないだけで、実際にはまぁまぁ強かったのではないでしょうか?
となると、そこに趙雲が入っていれば、かなり侮れない強豪にオオバケしていた可能性もあるのでは?
趙雲が劉備の配下にならなかったら、顔良と文醜が秒殺されてしまう?!
そして「趙雲が劉備の配下にならなかった」世界では、圧倒的に不利な運命を背負うことになる男が、二人いますね。
というのも趙雲は、武勇においては関羽にも匹敵する豪傑とされています。
公孫瓚軍に、関羽に匹敵する趙雲が控えていたとしたら、何が起こるでしょうか?
史実では、顔良は、関羽に秒殺されてしまっています。
同じように、趙雲と出会ったとしても、顔良と文醜は秒殺されてしまうのではないでしょうか?
公孫瓚軍に趙雲が居座り続けていたら、三国時代のかなり早い段階で、顔良と文醜が趙雲と激突するという構図になっており、顔良も文醜も活躍できる場がないまま歴史の闇に消えてしまいます。
袁紹軍の勇将があっけなく戦死してしまう展開とは!これでは袁紹は華北の平定すらままならず、公孫瓚軍と曹操軍との挟み撃ちの中で、ほとんど何もできないうちに勢力としては消滅してしまうでしょう。
そして有名な「官渡の戦い」は、袁紹軍対曹操軍ではなく、公孫瓚軍対曹操軍の決戦になってしまったことでしょう!
まとめ:趙雲がいれば公孫瓚の一族が三国末期まで生き延びる可能性がある!
もっとも、けっきょくは、公孫瓚が曹操に勝てるはずもないので、公孫瓚と袁紹が入れ替わったところでその後の三国時代の大勢には影響があんまりない、という見方もできるかもしれません。
ですが趙雲一人を抱えているだけで、公孫瓚には三国時代の最終局面まで生き延びる選択肢が出てくるのです!
というのも、公孫瓚には地の利があります。
三国志の後半で、司馬懿が、遼東に立て籠もって魏にたてついた「公孫淵」を討伐するというエピソードがありますよね?
三国志ライター YASHIROの独り言
ややこしいことに、この公孫淵という人物は、公孫瓚とは血筋の関係はまったくない人物なのですが、「名前が似ているもののヨシミ」として公孫瓚が公孫淵ポジションをとってしまったら、どうなるでしょうか?
公孫淵が司馬懿を相手に好戦できていた拠点の遼東は、公孫瓚の拠点である易京から近いのです!
よって公孫瓚の生き残り戦術とは、「趙雲の武勇をフル活用して、三国時代の序盤に遼東を併合してしまい、本来なら『公孫淵』がとるはずのポジションを『公孫瓚』がとってしまう。そして袁紹を片付けた後はひたすら遼東に立て籠もって、曹操の猛攻から逃げ続ける」、これです!
賢い曹操なら、趙雲が存命中の公孫瓚軍に無理に攻撃はしかけてこないでしょう。そうすれば中央での戦いを傍観しながら遼東半島で静観を続け、三国時代の末まで生き残ることができるでしょう!
さらに、よく考えると遼東地方というは、日本の邪馬台国からの使者を魏王朝につなぐという役割を担った土地。
邪馬台国の卑弥呼の使者が、趙雲の案内で中国大陸に上陸する、という大展開もあり得た?!
趙雲の没年が229年で、卑弥呼の没年が248年ですから、趙雲がもう少し長生きしてさえくれれば、あながちその展開も、夢ではなかったはず!!
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